第3話 森の薬草師
三日、歩いた。
街道を外れ、森に入り、名前も知らない小川を二つ渡った。秋の朝は冷たいが、歩いている間は寒くない。
夜は木の根元で眠り、朝は道端の野草で腹を満たした。薬草師の娘は、食べられる草と毒草の区別がつく。それだけで三日は歩ける。
煙が見えたのは三日目の昼過ぎだ。木々の隙間から、細い煙が三筋、四筋と空に伸びている。煙のあるところには竈がある。竈があるなら人がいる。
丘を下ると、畑と家が点在する小さな集落が広がっていた。四十人ほどの村だろうか。畑の端で鍬を持っていた男がこちらを見て、手を止める。
「あんた、どこから来たね」
革袋がふたつ。辺境伯夫人の外套はない。三日分の土埃を被った麻の上着。身なりだけなら流れ者と変わらない。
「ブレーメ辺境伯領から来ました。薬草師です」
男が眉をひそめた。辺境伯領から遠くはない村だ。噂は届いているのだろう。
「辺境伯の奥方だった人が、なぜこんな所に」
「追い出されました」
嘘をつく理由がない。追い出されたから出てきた。それ以上でもそれ以下でもない。
男が黙った。隣の畑の女も手を止めて振り返っている。
「何を突っ立ってるんだい」
杖をついた老婆が、家の軒先から出てきた。背は曲がっている。けれど目だけは真っ直ぐだ。
「薬草師だって言うんだが、ベルタ婆さん。辺境伯の……」
「聞こえてたよ。追い出されたんだろう。で、薬草が扱えるのかい」
「はい」
ベルタ婆さんは私の手を見た。日焼けした指先。爪の間に残った薬草の色。
「薬草が扱えるなら空き家を使いな。村外れの石壁の家だ。屋根は少し傾いてるが、雨は漏らない」
それだけだった。身元の確認も、保証人の要求もない。手を見て、匂いを嗅いで、それで十分らしい。
その日のうちに石壁の家に入った。窓が一つ。寝台と机。壁の棚には前の住人が残した乾いた花束がある。何の花かは匂いで分かる。エルダーフラワー。風邪に使う。
革袋を降ろして、薬草の種と調合道具を棚に並べた。これで「家」になる。二年間いた辺境伯の屋敷よりも、並べるものは少ない。それが楽だと思う自分がいる。
夜、寝台に横になると天井の木目が見える。辺境伯の屋敷では天蓋のある寝台だった。天蓋の絹よりも、この石壁のほうが風の音をよく通す。風に混じって虫の声がする。静かなのに、賑やかだ。
最初の朝、窓から差す光で目が覚めた。辺境伯の屋敷では暗いうちに起きて薬草園に向かっていた。寝台で朝日を見るのは、二年ぶりだ。
翌朝から仕事を始めた。
まずベルタ婆さんの腰。話を聞くと、冬になるたびに痛みが強くなるらしい。腰回りに使える薬草は森に入れば見つかる。午前中に三種類摘んで、昼に軟膏を練り、夕方には湿布にして届けた。
「ほう。今まで温めた布を当てるしかなかったのに」
ベルタ婆さんが腰を伸ばして、少しだけ表情を緩めた。
翌日、ベルタ婆さんが村の女たちを三人連れてきた。「この人は薬草の先生だ。困ったことがあったら遠慮なく頼みな」。私は何も頼んでいない。この人が勝手に決めて、勝手に広めている。辺境伯の屋敷にはいなかった種類の人だ。
三日目。隣家の子どもが高熱を出して、グスタフが走ってきた。子どもの額に触ると、焼けるように熱い。母親が青い顔で立ちすくんでいる。
解熱に使う薬草は前日のうちに乾かしてある。煎じ方は父から教わった通り。苦味が強いから、蜂蜜で溶いて飲ませる。母親の手を握り、朝まで待つように伝える。子どもは薬が苦いと顔をしかめたが、蜂蜜の甘さが勝って、しばらくして目を閉じた。
朝には汗をかいて、熱が引いていた。
五日目。猟師が腕に切り傷を作って帰ってきた。自分の刃物で切ったらしい。傷口を洗い、止血の薬草を貼って包帯を巻く。
「化膿したら来てください。三日は包帯を替えないように」
猟師は黙って頷いて帰っていった。この村の男たちは言葉が少ない。
一週間で「先生」と呼ばれるようになった。
辺境伯の屋敷では二年かけても「庭いじり」だった。ここでは一週間で「先生」だ。やっていることは同じなのに、呼ばれ方が違う。違いがどこにあるのかは、わからない。わからなくていい。ここでは、手を動かした分だけ言葉が返ってくる。それで十分だ。
森の奥に希少な薬草があると、ベルタ婆さんから聞いた。ファーレンクラウト。解毒に使える。川の上流の岩場に群生地があるが、獣の多い一帯だという。
朝露が残るうちに出た。獣道を辿り、森の奥へ入る。木が密になるにつれて日差しが細くなり、足元は落ち葉に覆われている。
空気が変わった。土と落ち葉の匂いの下に、獣の体臭が混じっている。鹿の糞が道の脇に落ちていた。乾いていない。この辺りは人の場所ではない。
獣道の先に、人の背中が見えた。
男がしゃがんでいる。足元には罠にかかった鹿。片方の前脚が紐に絡まり、赤く腫れている。男は鹿の脚を片手で押さえ、もう片方の手で紐を解こうとしていた。
殺すためではない。脚を解放しようとしている。
鹿が暴れる。男は黙って押さえ続ける。体は大きいが、手の動きは静かだ。鹿の首を撫でている。暴れないようにではなく、怖がらせないように。そういう手つきだ。
紐が外れた。だが傷口から血が滲んでいる。このまま放せば、走る間に傷が開く。
私は革袋から止血の薬草を出して、男の横にしゃがんだ。無言で差し出す。
男は薬草を受け取り、揉み、鹿の傷口に当てた。迷いのない手つきだ。この人は薬草の使い方を知っている。
鹿の目がこちらを見ている。怯えは残っているが、暴れない。
男が手を離す。鹿が立ち上がり、三本脚で跳ねるように森へ消えていった。薬草は傷口に貼りついたままだ。
ここまで、一言も喋っていない。
男が立ち上がった。私も立つ。
「この先は熊が出る」
初めて声を聞いた。低い。短い。
「薬草があるの。川上の岩場に」
男は森の奥を見て、黙って歩き出した。ついてこいという意味らしい。
群生地まで半刻ほど歩いた。岩場の隙間に、小さな白い花がまとまって咲いている。ファーレンクラウト。葉を嗅ぐと鼻の奥を刺す匂いがする。間違いない。
父が生きていたら、この群生地を見せたかった。解毒の薬は作れる薬草師が少ない。この量があれば、村の備えとして一年は持つ。
根を傷めないよう、一株ずつ摘む。男は少し離れた岩の上に座って、森の奥を見ている。見張っているのだと分かったのは、三株目を摘んだ頃だ。
鳥の声が変わると、男の視線が動く。枝が折れる音がすれば、手元の短刀に指がかかる。一度もこちらを振り返らないのに、私の手元の音は聞いているらしい。摘む手が止まると、こちらを見る。
十二株。革袋に詰めて立ち上がった。
「ありがとう。なぜ付き合ってくれたの」
「危ないから」
「……それだけ?」
「それだけ」
帰り道も、男は前を歩いた。ぬかるみの手前で足を止め、通りやすい場所を目で示す。言葉ではなく、足元で道を教える人だ。
半刻ほどの帰り道、一言も交わさなかった。沈黙が気まずくない。辺境伯の屋敷での食卓の沈黙は、いつも何かが足りない合図だった。この沈黙には、何も足りないものがない。
村の入り口で立ち止まった。
「名前は」
「ネルです」
「ルッツ」
それだけ言って、森の方へ戻っていった。
翌朝。薬草採取に出ようと戸を開けたら、家の前にルッツが立っていた。
「……行くんだろ」
また付き合ってくれるらしい。
この人は、昨日「危ないから」と言った。今日もいる。言ったことと、やっていることが、同じだ。
たったそれだけのことだ。でも二年間、そういう人には会わなかった。
それだけのことが、少し、嬉しい。




