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「いなくなれ」と言ったのに探しに来るの、矛盾してませんか?  作者: 九葉(くずは)


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2/10

第2話 いなくなれ、と言われた日

一ヶ月前。ブレーメ辺境伯邸での朝は、薬草園から始まる。


夜明け前に起きて、朝露が乾かないうちにカミルレの花を摘む。花が開ききる前のほうが薬効は強い。指先が露で濡れる。爪の間に花粉が入る。摘んだらすぐに風通しのいい棚に並べて、昼までに乾かす。乾けば胃薬の元になる。


午前のうちに民家を回る。タイムの煎じ薬を咳の止まらない老人に届け、ヤナギの樹皮を削った粉薬を関節痛の婦人に渡す。水疱瘡が治りかけの子どもの肌にはカレンデュラの軟膏を塗って包帯を替える。母親は働きに出ているから、隣の家の婆さんに包帯の巻き方も教えておく。


往診が終わっても仕事は残る。薬草の在庫を確認して、足りないものは翌朝の採取予定に入れる。乾燥が済んだカミルレを瓶に詰め、虫がつかないよう密閉する。地味な作業ばかりだが、怠った日に困るのは領民だ。


昼に屋敷へ戻って調合。秋口に流行る腹下しの予防薬を二十人分。粉の配合は季節と体格で変わるから、毎回量を調整する。


夕方は馬で川上まで行き、水源に浄化用の薬草を撒く。これを三日怠ると井戸水に臭いが混じり始める。一週間放置すれば腹を壊す者が出る。


帰りは暗い道を馬で戻る。屋敷に着く頃にはとっくに夕餉の時間を過ぎていて、台所でマルタが取り置いてくれた冷めたスープを飲む。ブルーノと食卓を囲むのは月に数えるほどだ。


一度だけ、食事の席で水源浄化の話をしたことがある。「最近の井戸水は澄んでいるだろう」と言ったら、ブルーノは「元からそうだろう」と返した。元からではない。私が毎週薬草を撒いているからだ。でもそれ以上は言わなかった。言っても変わらない。この人にとって、井戸水が澄んでいるのは天気のようなものだ。誰かが手を動かしている結果だとは、考えもしない。


毎日これを繰り返す。季節ごとに薬草が変わるだけで、手順は同じだ。


ブルーノはこの仕事を「庭いじり」と呼んでいた。


社交の席で誰かに妻の仕事を聞かれたとき、「薬草園の世話をしている」と答えたのを隣で聞いた。間違ってはいない。ただ、水源の浄化も、領民への往診も、予防薬の調合も、全部そこから抜け落ちていた。


訂正はしなかった。説明して伝わる相手なら、説明しなくても気づいている。


辺境伯夫人の務めは本来、社交と屋敷の管理だ。でもこの領地に薬師はいない。前任の薬師が引退してから三年、後任は来なかった。だから私がやった。それだけの話だ。


ゲルダが現れたのは、秋の領主会合の席だった。


隣領の男爵家の末娘。栗色の巻き毛に碧い目。笑うときに首を少し傾ける癖がある。社交向きの人で、ブルーノの隣に立つ姿は絵のように様になっていた。


私は会合の端で、翌日届ける解熱薬の配合を頭の中で組み立てていた。領地の東側で風邪が流行り始めている。子どもに使う分は苦味を抑えて蜂蜜で溶く。そんなことを考えている間に、ブルーノとゲルダの距離は縮まっていた。


離れた場所から見ていた。軍人上がりの辺境伯と、華やかな令嬢。挨拶の間合いも会話の返しも、私にはできない滑らかさだ。


それだけなら、何も変わらない。


変わったのは、ゲルダが私の仕事に触れたときだ。


「奥様は毎日お庭で草をいじっていらっしゃるだけなのですか? お暇でよろしいですわね」


声に棘はない。微笑みの形をしている。でも「草をいじる」は、ブルーノが社交の席で使った言い方とよく似ていた。偶然かもしれない。でも偶然であっても、ブルーノの耳には同じに届く。


あの日、部屋に戻って自分の手を見た。日焼けして、薬草の匂いが染みついた指先。ゲルダの白い手とは何もかもが違う。比べたかったのではない。比べるまでもないと確かめただけだ。


社交から戻った日を境に、私への言葉が減った。薬草園の報告をしても頷くだけで、視線は窓の外に向いている。


それから二週間。ゲルダが屋敷を訪ねる回数が増えた。月に一度が週に一度になり、週に一度が三日に一度になった。ゲルダが来るたびに、ブルーノの執務室から笑い声が聞こえた。私がいた二年間、あの部屋から笑い声が聞こえたことは一度もない。


ある夜、執務室に呼ばれた。


長い廊下を歩く。すれ違う侍女たちが目を逸らす。何かを知っている顔だ。屋敷中が知っていて、私だけが呼ばれて初めて聞く。そういう順番らしい。


蝋燭が二本。ブルーノは机の前に立っていて、椅子にも座っていなかった。用件だけを済ませる姿勢だ。


「ゲルダを側室に迎える。お前は邪魔だ。いなくなれ」


一秒。二秒。三秒。


蝋燭の炎が揺れて、壁のブルーノの影が伸びたり縮んだりしている。


「わかりました」


声は平らだった。震えてはいなかった。


二年分の朝が頭をよぎる。薬草園の霜を払った冬の朝。腹痛の子どもを看た昼。水源まで馬を走らせた夕暮れ。どれひとつ、この人の前に並べても届かない。並べたところで返ってくるのは「庭いじり」だけだ。


翌朝から引き継ぎを始めた。


初日。侍女のマルタを薬草園に連れ出す。「この列がカミルレ。胃薬の元になる。隣のタイムは咳止め。奥のヤナギは関節痛。冬前に必ず刈り取ること。これだけは覚えて」


マルタは目を赤くしながら、必死に紙へ書き取っていた。全部で二十三種類。育て方、収穫時期、乾燥の仕方がそれぞれ違う。配合の比率まで含めれば紙が何枚あっても足りない。でもマルタは一行も飛ばさず書き続ける。


二日目。馬を借りて川上まで行き、浄化用の薬草をいつもの三倍撒く。三ヶ月は持つ。その間にマルタが手順を覚えてくれれば、この領地の井戸水は守れる。


川の水は冷たかった。あと一月もすれば雪が降る。雪が降れば川上には来られない。冬の浄化手順はまだマルタに伝えていない。三日では足りない。でも三日しかもらえなかった。


三日目。荷物をまとめる。


薬草の種。調合道具。着替えが三組。辺境伯夫人の衣装には触れない。宝石にも、銀食器にも。もらったものには手をつけない。自分のものだけを革袋に詰めた。革袋はふたつ。二年分の暮らしが、革袋ふたつに収まる。


玄関を出ようとしたとき、廊下の奥から走る足音が追いかけてきた。


マルタだ。泣いている。この人はよく泣く人だけれど、今日の泣き方は違う。声を殺しているのに肩が止まらない。


「ネル様」


両手で、小さな革表紙の手帳を差し出した。


「ネル様の薬草帳です。わたしが預かるより、ネル様が持っていてください」


二年間かけて書いた薬草帳だ。配合の比率、採取の時期、患者ごとの処方の記録。全部マルタに引き継ぐつもりで置いていった。


「これはあなたに」


「わたしには読めても、作れません」


マルタの涙が手帳の表紙に落ちる。革が一滴分、色を変えた。


受け取った。言葉が見つからなかったから、マルタの手を一度だけ握って、離した。


門までの石畳を歩く。中庭の薬草園が目に入る。朝、水をやったカミルレが秋の陽に白い花を広げている。明日からあの花を摘む手が変わる。


門を出る。振り返らない。


背中に視線を感じる。上。二階の窓。見なくてもわかる。


引き止める声はなかった。あの人は命令はできても、撤回はできない。それも二年間で知ったことのひとつだ。


石畳が途切れて、土の道に変わる。土の匂いがする。石畳の上では気づかなかった匂いだ。秋の風が首筋に冷たい。辺境伯夫人の外套は置いてきた。自分の麻の上着だけでは、もう寒い季節だ。


わかりました、と言った。だから、行く。言葉と行動を一致させるのは、そんなに難しいことだろうか。


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