第1話 矛盾しています
森の奥の小さな村で薬草を干していたら、元夫が甲冑姿で乗り込んできた。
「ネル。なぜ勝手にいなくなった」
いなくなれと言ったのは、あなたですが。
心の中でそう返しながら、私はまず手元の薬草を結び終わらせた。ラベンダルの花がちょうど干し頃で、今日を逃すと色が落ちる。茎を三本ずつ揃えて、麻紐で縛る。
ブルーノ・フォン・ブレーメ。ブレーメ辺境伯。一ヶ月前まで、私の夫だった人。
馬蹄の音は、村に入る前から聞こえていた。四つ、五つ。旗持ちの兵までいて、辺境伯家の紋章旗が秋風に広がっている。人口四十人のこの村に紋章旗を持ち込むのは、蟻の巣に大砲を向けるようなものだと思う。
先頭の馬から降りたブルーノは、甲冑の胸当てを鳴らしながら私の前に立った。
大きい人だ。辺境伯を継ぐ前は前線で剣を振っていた人だから、肩幅がある。その肩幅で小さな薬草小屋の軒先に立たれると、日差しが遮られて手元のラベンダルが暗くなる。
怒っている。眉の間に深い皺。この皺の寄り方は、晩餐の席で政敵の名を聞いたときと同じだ。二年間一緒に暮らしていたから、そのくらいはわかる。
二年間一緒に暮らして、私が毎日どんな仕事をしていたかは覚えていないらしいけれど。
「返事をしろ」
「はい。いなくなれと仰ったのは、あなたです」
薬草を置いて、顔を上げた。
ブルーノの顔が赤くなっていく。こめかみの血管が浮いている。この人は怒ると耳の後ろから赤くなる。それも二年間で覚えたことのひとつだ。覚えていなくてよかったことのひとつでもある。
「いなくなれとは言った。だが、こんな辺鄙な場所に消えろという意味ではない」
「行き先のご指定はありませんでした」
「屁理屈を言うな」
屁理屈だろうか。
「いなくなれ」と言われたので、いなくなった。引き継ぎに三日かかる。薬草園の管理手順を侍女のマルタに伝えて、水源の浄化薬草を多めに撒いて、荷物をまとめた。
持っていくものは迷わなかった。薬草の種、調合道具、着替えが三組。辺境伯夫人としての衣装や装飾品には触れない。もらったものではなく、自分のものだけを持って出た。
門を出て、振り返らずに歩いた。
行き先は決めていなかった。実家はない。薬師だった父も母も、私が十四のときにはもういなかった。嫁ぎ先を追われた女の行くところは多くない。
でも、薬草はどこにでも生える。森があって、水があれば、私はたいていのことができる。
言葉のとおりにした結果、この村に辿り着いた。それだけのことだ。
「聞いているのか」
ブルーノの声がさらに大きくなる。
「はい」
「ならば荷物をまとめろ。連れ戻す」
後ろの騎馬隊に顎で指示を出した。兵が二人、馬を降りて近づいてくる。
私はもう一束、ラベンダルの茎を手に取った。日が傾く前に縛らないと折れやすくなる。あと五束。
「お断りします」
「何だと」
「いなくなれと言ったのに探しに来るの、矛盾してませんか」
言い終えて、自分でも少し不思議だった。
怒りでは、ない。悲しみも、もうあまり残っていない。あの夜、「お前は邪魔だ、いなくなれ」と言われたとき、三秒ほど黙って、それから「わかりました」と答えた。あの三秒で何かが静かに閉じた。扉を閉めるときに似ている。取っ手を引いて、かちりと錠が落ちる。もう開かない。そういう感覚だった。
だから今は、純粋に矛盾が気になるだけだ。
「出ていけ」と言った人が追いかけてくるのは、どういう理屈なのだろう。いなくなれと命じておいて、いなくなったら怒る。言葉と行動が合っていない。矛盾している。
ブルーノの口が開いて、閉じた。
この人が返事に詰まるのを見るのは、二年間で初めてかもしれない。軍人で、辺境伯で、命令することに慣れている。食卓で「塩を取れ」、執務室で「書類を持ってこい」、社交の場で「俺の隣に立て」。この人が言ったことが実行されなかったことは一度もなかった。
私も、実行した側のひとりだ。
季節の予防薬を配れと言われれば配った。水源の浄化を続けろと言われれば続けた。言われなくてもやっていたけれど。
そして「いなくなれ」と言われたから、いなくなった。
でも「矛盾してませんか」に返す命令の言葉は、きっとこの世に存在しない。
「黙れ。お前は俺の――」
「おや、甲冑の旦那。うちの先生に何の用だい」
割って入ったのはベルタ婆さんだった。
杖をついて、背中は曲がっている。けれど目だけは村でいちばんまっすぐだ。この人は村の最長老で、私がここに来た初日に「薬草が扱えるなら空き家を使いな」と言ってくれた。それから一週間で、村の人は私を「先生」と呼ぶようになった。
「部外者は引っ込んでいろ。辺境伯家の問題だ」
「辺境伯家だか何だか知らないけどねえ。この先生にはあたしの腰の湿布を作ってもらってるんだ。連れていかれると困る」
ベルタ婆さんの後ろから、村人たちが集まってきた。
パン屋のグスタフが腕を組んで立つ。先週、娘のクラーラが高熱を出したとき、夜中に私の小屋の戸を叩いた人だ。解熱の薬を煎じて飲ませたら、朝には汗をかいて熱が下がった。
「その人はうちの先生だ。連れていかれちゃ困る」
井戸番のヨシャンは何も言わなかったけれど、井戸用の長い竿を肩に担いだまま動かない。その奥さんのイルゼが、子どもたちを自分の体の後ろに隠している。
四十人の村。甲冑の騎馬隊に力で敵うはずがない。
それでもここに立っているのは、たぶん、小さな恩を覚えていてくれるからだ。腰の湿布。子どもの熱冷まし。井戸水に混ぜる浄化の薬草粉。どれも大した仕事ではない。でもこの人たちは、大した仕事ではないことを、大した仕事ではないと扱わなかった。
それだけで、私はここにいたいと思った。
ブルーノは村人たちをゆっくり見回した。舌打ちがひとつ。騎馬隊の兵たちも困った顔をしている。辺境伯が甲冑で乗り込んで、村人を押しのけて女を一人引きずっていく。そんな噂が立てば一日で領内を回る。この人は戦には強いけれど、評判には弱い。
「覚えていろ。必ず連れ戻す」
それだけ言って、ブルーノは馬に跨がった。紋章旗が翻る。馬蹄の音が森の中に遠ざかっていき、やがて消えた。
砂埃が収まるまで、誰も動かなかった。
ベルタ婆さんが私の隣に来て、干し台のラベンダルを一本つまむ。
「旦那さん、怒ってたねえ」
「旦那さんだった方です」
「あらま。じゃあ元旦那さんかい。どっちにしたって怒りん坊だね」
ベルタ婆さんが歯の少ない口で笑う。それにつられて、私も少しだけ口元が緩んだ。一ヶ月前の私がこの笑い方をできたかどうかは、わからない。
グスタフが「大丈夫かい、先生」と声をかけてくれて、イルゼが「何かあったら呼んでね」と手を振った。ヨシャンは最後まで黙っていたけれど、去り際にひとつ頷いた。あれはたぶん、あの人なりの「味方だ」だ。
辺境伯の屋敷にいた二年間、こんなふうに声をかけてもらったことが何度あっただろう。数えられるくらいしかない。マルタくらいだ。あの泣き虫の侍女頭くらいしか。
村人たちの背中が散っていくのを見ながら、私は干しかけの薬草に手を戻した。
ラベンダルの花を揃えて、麻紐で結ぶ。三本ずつ。あと四束。日が傾く前に終わらせたい。
手を動かす。結ぶ。並べる。次の束を取る。
この作業が好きだ。手を動かしている間は、余計なことを考えなくていい。「いなくなれ」と言われた夜のことも、三日で荷物をまとめたことも、門を出るとき二階の窓からこちらを見ていた目のことも。
考えなくていいのに、ひとつだけわかっていることがある。
あの人は、また来る。矛盾してるから。




