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「いなくなれ」と言ったのに探しに来るの、矛盾してませんか?  作者: 九葉(くずは)


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10/10

第10話 矛盾のない場所

治療を終えた朝、マルタと二人で薬草帳の写しを作った。


私が口述し、マルタが書き取る。水源浄化の七種の配合。季節ごとの撒き方。井戸の水が濁り始める兆候と、その前に打つ手。二年間で私が覚えた全てを、一つ残らず紙に移す。前の引き継ぎ書は概要だけだった。今度は手順の一つ一つまで、マルタが一人で再現できるように書く。


「この三種は秋の長雨の前に撒くこと。遅れると浄化が間に合わなくなる。量は水量で変わるから、井戸を覗いて底の石が見えるかどうかで判断して」


マルタが頷きながら、丁寧な字で書き留めていく。


「……ネル様。これだけのことを、お一人でなさっていたのですね」


「一人じゃなかったですよ。マルタさんがいつもお茶を持ってきてくれたから、夜の調合も乗り越えられた」


マルタの目が赤くなる。何か言いかけて、唇を噛む。


「あの夜、止められなかったことを、ずっと」


「マルタさんのせいではありません。あの人が決めたことです」


薬草帳の最後の頁を書き終えた。乾く間に、患者ごとの処方も口述する。エルンストの胃薬の配合。鍛冶屋の息子の解熱剤の量。子どもと大人で薬の濃さが違うこと。全て書き終えて、冊子を閉じた。マルタの手に渡す。


「あとは、この領地の皆さんの健康を頼みます。私はもう、あちらの人間ではありませんから」


マルタが深く頭を下げる。額が手の甲につくほどの礼だ。


「ネル様は、最初から最後まで、この領地の味方でした」


味方だった。そうかもしれない。でも味方でいることと、隣にいることは違う。味方は離れていてもできる。隣にいるのは、選んだ人の傍だけだ。それを教えてくれたのは、この領地ではなく、あの村だ。



帰り際に、マルタが教えてくれた。


ヴァイス公爵家の調査が入り、領地の管理実態が明るみに出たという。疫病への対応の遅れ。有能な薬草師であった妻の追放。側室との経緯。公爵家から監査役が常駐することになり、ブルーノは事実上、領地の運営を一人で決められなくなった。


ゲルダは実家に帰ったが、辺境伯を傾かせた女として噂が広まり、次の縁談は来ていないらしい。


同情はしない。でも溜飲を下げるつもりもない。あの人たちがどうなろうと、もう私には関わりのないことだ。


マルタがもう一つ、小さな声で教えてくれた。


「旦那様が、監査役にネル様の引き継ぎ書を見せて、仕事の内容を説明なさっていました。『庭いじり』と呼んでいたものの全てを、ご自分の口で、他人に説明なさるお姿は……少し、痛々しゅうございました」


自分が軽んじた仕事の重さを、他人に説明する。「庭いじり」と呼んでいたものの正体を、自分の口で語る。それがどれほどの屈辱か、想像はできる。でもそれ以上は考えない。あの人の苦しみは、あの人のものだ。私が背負う荷物ではない。



森の道を、二人で歩いている。


ルッツが前を歩き、私が後ろを歩く。いつもと同じ並びだ。荷物はルッツが全部持っている。返してと言っても首を振るだけなので、諦めた。


秋の森は色が変わり始めている。緑の中に黄色が混じり、足元に落ち葉が増えている。木漏れ日が地面に模様を描いている。三日前、この道を逆向きに歩いた。あの時は胸が重かった。三日間ほとんど眠れなかった体が重い。でも足は軽い。帰る場所がある足取りは、軽い。


ルッツが前を向いたまま聞いた。


「……後悔してないか」


あの領地に行ったことを聞いているのか。戻らなかったことを聞いているのか。どちらでも答えは同じだ。


「してません。でも、少し悲しかった」


ルッツの足が止まった。振り向かないが、耳がこちらを向いている。


「悲しいのか」


「あの人が二年間で一度も聞いてくれなかったことを、あなたは今、一言で聞いてくれたから」


後悔していないか。私の気持ちはどうなのか。ブルーノが最後に聞いた問いを、ルッツは帰り道の最初に聞いている。同じ問いでも、誰が聞くかで意味が変わる。


ルッツは黙って頷いた。また前を向いて歩き出す。背中が大きい。この背中の後ろを歩いていると、森の中でも怖いものがない。それでいい。この人に多くの言葉はいらない。一言で足りる。一言で足りる人の隣は、こんなにも穏やかだ。



グリュンの村が見えてきた。


村の入り口にベルタ婆さんが立っている。杖をついて、こちらを見ている。三日も村を空けたのは初めてだ。


「おかえり、先生。やっと帰ってきたかい。ルッツが寂しそうにしてたよ」


ルッツが露骨に目を逸らす。耳が赤い。ベルタ婆さんは見逃さない。


「ほら、見な。この子は昔からそうだよ。口では何も言わないくせに、耳だけは正直でね」


ルッツが無言でベルタ婆さんの横を通り過ぎていく。ベルタ婆さんが私にだけ聞こえる声で言う。


「あんたがいない間、毎日あんたの家の前を掃いてたよ。通り道でもないのにねえ」


通り道。あの嘘を、ベルタ婆さんも知っている。村中が知っている。知らないのは本人だけだ。



家に近づくと、見慣れないものがある。


小屋の隣に、木製の棚が新しく据えてある。板を組み、屋根をつけ、横に仕切りを入れた乾燥棚だ。釘の打ち方が少し荒い。でも造りは丈夫で、雨が入らないように庇がついている。


ルッツが荷物を下ろしながら、目を合わせずに言う。


「薬草、増えてきただろ。干す場所が足りなくなる」


確かに足りなくなりかけていた。崖から持ち帰った薬草の種が育てば、もっと増える。でもそれを口にしたのは一度だけだ。ベルタ婆さんの食卓で、独り言のように呟いた。この人は、また覚えている。私が忘れかけた一言を、拾い上げて形にしている。


「わざわざ、ここに作ったの」


ルッツの家は村の北だ。自分の家の近くに建てたほうが楽なのに、私の家の横まで材木を運んできている。


「……近いほうが、いい」


「近い」


ルッツの耳がまた赤くなる。視線が地面を彷徨い、木の棚の角に止まる。不器用な手が、棚の縁を撫でている。


「おれの……隣に。いてほしい」


声が小さい。でも聞こえた。この人の精一杯が、この一言だ。ブルーノの「頼む」とは違う。あの人の「頼む」は失ったものを取り戻すための言葉だ。この人の「いてほしい」は、今あるものを守りたい言葉だ。


笑った。声に出して笑った。ブルーノの屋敷を出て以来、初めての笑いだ。あの屋敷では笑い方を忘れていた。作った笑顔ではない。体の奥から上がってくる、温かい笑いだ。


「それは、『いなくなるな』という意味」


ルッツが頷く。


「矛盾してませんね」


「しない」


「……うん。しないね。あなたは」


「いなくなれ」と言った人がいた。「いなくなるな」と言う人が、目の前にいる。同じ言葉の、裏と表だ。でもその裏と表の間に、二年分の痛みと、一月分の安心が全部詰まっている。



夕暮れの光の中で、二人で薬草を新しい棚に並べている。


ルッツが束を受け取り、私が場所を指す。乾燥の進み具合で置き場所が変わる。この棚なら、冬の分まで十分に干せる。ルッツはもう覚えている。教えなくても、正しい段に置く。


薬草を一束、ルッツに手渡す。指先が触れる。


「明日も、一緒に森に行ってくれる」


「ああ」


「明後日も」


「ああ」


「……ずっと」


「ああ」


三回とも、同じ答え。同じ声。同じ目。


明日も明後日もずっとも、この人には同じ重さだ。軽くもなく、重くもなく、ただそこにある。約束を守ることがこの人の全てだから、「ああ」の一言が、どんな誓いより確かだ。


矛盾のない言葉。矛盾のない人。矛盾のない場所。


私はここにいる。


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― 新着の感想 ―
ルッツ一緒に行ったのに村で待って作業していた事になっていない?矛盾ですねー
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