第9話 背中を押す人
「まだ悩んでるのか」
その日、大和の部屋を訪れると、航さんはそう言って、僕の顔を覗き込んできた。何も話していないのに、見抜かれている。そんな気がした。
「……分かりやすいですか、僕」
「まあ、分かりやすいってより、大和と違って表情が豊かなんだよ、お前」
「それ、褒めてんのか貶してんのか分かんねえよ」
大和が横から口を挟む。航さんは軽く笑いながら、それでも僕から目を逸らさなかった。
「別に、無理に決断しろとは言わないよ。ただ――」
少し間を置いて、航さんは続けた。
「迷ってるってことは、心のどこかで、行きたい気持ちがあるってことなんじゃないか」
その言葉に、僕は何も返せなかった。図星だった。
*
その夜、僕は珍しく、母が帰ってくるのを起きて待っていた。
「あら、まだ起きてたの?」
玄関を開けた母は、少し驚いたように言った。疲れた顔の中に、僅かな戸惑いが浮かんでいた。
「母さん、話したいことがあるんだ」
僕は、テーブルを挟んで母と向かい合った。心臓が、痛いくらいに鳴っていた。
「僕……大学に、行きたい」
言ってしまった。喉の奥がからからに乾いていた。
「駄目、なわけないよね。分かってる、お金がかかることも。でも――」
言葉が続かなかった。何を言えばいいのか、うまくまとまらなかった。
母は、しばらく黙って僕を見ていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「晴信」
「うん」
「母さんね、ずっと待ってたの。あなたが、そう言ってくれるのを」
僕は、目を見開いた。
「待って……た?」
「うん。母さん、高校しか出てないでしょう。だから、就職するときも、選べる仕事なんてほとんどなかった。晴信には、そういう思いをしてほしくなかったの」
母の目に、うっすらと涙が浮かんでいた。
「でも、晴信が家のこと気にして、大学に行きたいなんて言わないだろうなって、それも分かってた。だから、母さんの方から、ちゃんと言わなきゃって、ずっと思ってたの。なのに、なかなか言えなくて」
「僕も、同じだったよ。母さんに、これ以上苦労かけたくなくて」
二人して、笑ってしまった。情けないくらい、似たもの親子だった。
「大丈夫。お金のことは、母さんが何とかする。だから晴信は、ちゃんと勉強して、行きたい大学に行きなさい」
「……うん。ありがとう、母さん」
その夜、僕たちは、随分と長い時間、話し込んだ。
*
数日後、僕は大和の部屋で、そのことを報告した。
「大学、行くことにした」
そう告げると、航さんは満足そうに頷いた。
「そうか。よく決めたな」
それだけ言って、あとは特に何も言わなかった。押し付けがましくないところが、航さんらしいと思った。
一方、大和は少し黙り込んでから、ぽつりと言った。
「……そっか」
その一言だけだった。それ以上、何かを言うわけではなかった。
けれど、その瞬間、大和の目に浮かんだ表情を、僕は今でもよく覚えている。
喜んでいるのは、間違いなかった。祝福しているのも、本当だったと思う。
でも、そこにはほんの一瞬だけ、眩しいものを見るような、どこか羨むような色が滲んでいた。
その意味を、当時の僕は、深く考えることはなかった。
大和には、ボクシングという、彼だけの道がある。僕とは違う場所で、彼は彼の未来を歩んでいるのだと、そう思い込んでいたからだ。
――彼もまた、進むべき道の途中で、誰かに背中を押してほしいと思っていたのかもしれないなんて、そのときの僕は、想像もしていなかった。




