第8話 迷いの中で
「選択肢は、今のうちにしか作れない」
航さんのその一言が、頭から離れなくなっていた。
今まで、迷ったことなんてなかったはずだった。高校を出たら働く。それ以外の道を、真剣に検討したことすらなかった。それなのに、たった一言が、僕の中にあった当たり前を、少しずつ揺さぶり始めていた。
*
夕食の席で、母の顔を見るたびに、僕は言葉を飲み込んでいた。
「大学、行きたい」
そのたった一言が、どうしても言い出せなかった。
母は毎日、朝からスーパーのパートに出て、夕方から夜にかけては清掃の仕事をしている。帰ってくるのは、いつも僕が寝る少し前だ。疲れた顔を隠しながら、それでも「おかえり」ではなく「ただいま」と、逆に僕に声をかけてくれる。
そんな母に、「大学に行きたい」なんて、どの口で言えるというのだろう。
学費、生活費、それ以外にもかかる諸々の費用。全部、母の細い肩にのしかかることになる。
――僕がわがままを言えば、母はもっと働かなきゃいけなくなる。
そう考えると、口を開くことができなかった。
*
これは、ずっと後になって、母自身の口から聞いた話だ。
あの頃の母もまた、僕とは違う種類の葛藤を、一人で抱えていたのだという。
母は、高校を出てから結婚するまで、フリーターとして働いていた。学歴がないことで、条件のいい仕事にはなかなか就けず、ずいぶん苦労したらしい。父と結婚し、僕を産んでからは専業主婦として家庭に入ったが、父を亡くしてから、その苦労がまた自分の身に降りかかってくることになった。
「学歴があれば、選べる仕事の幅が全然違ったのよ」
後年、母はそう言っていた。
だからこそ、母は僕にだけは、大学まで出てほしいと、心のどこかでずっと思っていたのだという。
けれど、母もまた、それを僕に伝えることができなかった。
――大学に行きたいなんて、この子は言わない。うちの家計を分かっているから。
母は、僕の性格をよく分かっていた。だから、無理に「行け」とは言わず、いつかタイミングを見て、じっくり説得するつもりでいたのだという。
互いに、相手を思いやるあまり、互いに本音を言えずにいた。
そんな滑稽な擦れ違いが、あの頃の僕たちの間には、確かにあった。
*
「今日、学校どうだった?」
「別に、普通だよ」
いつもと同じやり取り。母は疲れた顔で笑いながら、味噌汁をよそってくれる。
言おうか、言うまいか。何度も、喉元まで出かかった言葉を、僕はその都度飲み込んだ。
――母さんに、これ以上、無理をさせたくない。
その一心で、僕は「就職する」という選択を、変えられずにいた。
でも、航さんの言葉は、ずっと胸の奥に引っかかったままだった。
「選択肢は、今のうちにしか作れない」
その言葉の意味を、僕はまだ、本当の意味では理解していなかったのかもしれない。
あの日々、僕と母は、同じ食卓を囲みながら、それぞれ違う迷いを、一人で抱え込んでいた。




