第7話 大人の言葉
それから僕は、月に二、三度のペースで、大和のアパートに顔を出すようになっていた。
大和自身は、相変わらず口数が少ない。それでも、一緒にいることを拒む素振りは見せなくなっていた。むしろ、航さんが来るタイミングに合わせて、僕を誘うことすらあった。
「今度の土曜、オッサン来るってさ。暇なら来れば」
それが、大和なりの誘い方なのだと、僕はもう理解していた。
*
航さんは、来るたびに違う話をしてくれた。若い頃のボクシングの話、フリーランスとして働くことの苦労、あるいはくだらないテレビ番組の感想まで。
不思議な人だった。年上の大人と話しているはずなのに、まるで少し歳の離れた兄と話しているような気安さがあって、それでいて、時折見せる眼差しには、こちらの奥まで見透かされているような鋭さがあった。
その日も、たわいのない世間話をしていたはずだった。
「そういえば武田くん、進路はもう決めてるのか? 高二だろ、そろそろ考える時期じゃないか」
何気ない質問だった。だからこそ、僕もつい、素直に答えてしまった。
「あ……はい。就職しようと思ってます」
「就職? 大学は?」
「うちは母子家庭なので。母も無理して働いてくれてるし、これ以上、学費とか負担かけたくないんです」
僕は、努めて明るく答えたつもりだった。惨めに聞こえないように。同情されないように。
でも、航さんは、それまでの飄々とした表情を、ふっと消した。
「……そうか」
しばらく、沈黙が流れた。大和は何も言わず、麦茶のグラスを弄んでいた。
「なあ、武田くん」
航さんが、静かに口を開いた。
「俺の持論なんだけどさ。学力ってのは、読んで字のごとく『学ぶ力』のことだと思ってる」
「学ぶ力……ですか」
「うん。テストでいい点を取る力、って意味じゃなくてさ。新しいことを吸収して、自分の頭で考えて、知らない世界に飛び込んでいく力。それを鍛えられる時間が、若いうちにはあるんだよ」
航さんは、隣で退屈そうにしている大和を、ちらりと見た。
「こいつにも、耳にタコができるくらい言ってる話なんだけどな。この力が無いと、どんな道に進んだとしても、人生は結構、詰むぞ」
「オッサン、その話また始まった」
大和が呆れたように言う。航さんは気にせず続けた。
「別に、大学に行くこと自体が偉いなんて思っちゃいない。ただ、選択肢を持てるかどうかってのは、後々ずいぶん違ってくる。特に、こういう時代はな」
僕は、何も言えなかった。
高校を出たら働く。それが当たり前で、それ以外の道なんて、僕には最初からないものだと思い込んでいた。
「母さんが、無理してるのは分かってます。だから、僕が早く働いて、楽させてあげたいんです」
そう言うと、航さんは少し困ったように笑った。
「その気持ちは、立派だと思うよ。でも――」
そこで、航さんは言葉を切った。何かを言おうとして、思い直したような間があった。
「いや、今すぐ結論を出す話じゃないな。ただ、覚えておいてほしい。選択肢は、今のうちにしか作れないものもあるってことを」
それだけ言うと、航さんはいつもの飄々とした調子に戻り、話題をくだらないテレビ番組の話に変えてしまった。
でも、僕の中には、その言葉がずっと残り続けていた。
選択肢は、今のうちにしか作れない。
その夜、家に帰ってからも、僕はずっとその言葉を反芻していた。母の顔を思い浮かべながら。




