第10話 グローブと教科書
大学に行くと決めてから、僕の生活は一変した。
といっても、劇的に何かが変わったわけじゃない。ただ、放課後の時間の使い方が変わっただけだ。今まで大和の部屋に入り浸っていた時間の大半が、机に向かう時間に置き換わっていった。
情報学部を志望することに決めたのは、単純な理由だった。パソコンをいじるのが、昔から好きだったからだ。趣味のアニメやゲームの延長線上にある学問だと思えば、勉強に対する苦手意識も、少しは薄まった気がした。
もちろん、簡単な道のりではなかった。特に数学は苦戦した。夜遅くまで問題集とにらめっこして、分からない問題に頭を抱える日々。それでも、「選択肢は、今のうちにしか作れない」という航さんの言葉を、何度も心の中で繰り返した。
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一方、大和の生活も、僕とはまた違う意味で、変わらず過酷だった。
放課後は、まっすぐジムへ向かう。アルバイトのシフトがある日は、その合間を縫って練習時間を確保する。休みの日は基本的にない。
「ボクシングって、そんなに毎日練習するものなの?」
あるとき、そう聞いたことがある。大和は、当たり前のことを聞くなという顔で答えた。
「サボったら、その分だけ弱くなる。それだけの話だ」
シンプルな答えだった。でも、その言葉の裏にある覚悟の重さを、僕はうまく想像できていなかった。
減量、走り込み、ミット打ち、スパーリング。大和が語る練習内容は、僕の知らない世界の話ばかりだった。それでも彼は、辛いとも苦しいとも、一切口にしなかった。
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ある日、僕は初めて、大和のジムに顔を出した。
薄暗い建物の中に、革の匂いと、汗の匂いが充満していた。リングの上で、選手たちがミットを打つ音が、規則正しく響いていた。
大和は、その中で、誰よりも真剣な顔をしていた。
いつもの、少し気だるげで無愛想な表情はそこになかった。真っ直ぐにミットを見据え、拳を打ち込むたびに、空気を切り裂くような音が鳴る。
その姿は、正直、格好良かった。
「へえ、あんな顔もするんだ」
思わず、そんな言葉が漏れた。隣で見ていたジムの会長らしき人が、笑いながら言った。
「あいつは、リングの上だと人が変わるんだよ。普段はあんなに愛想ないのにな」
僕は、ただ黙って、その姿を見つめていた。
教科書とにらめっこする僕の戦いと、拳一つで戦う大和の戦い。
同じ「戦い」という言葉でくくるのもおこがましいくらい、僕らの戦場は違っていた。それでも、どこかで通じ合っているような気がした。
互いに、譲れないものを持っている。それを守るために、それぞれのやり方で、必死にもがいている。
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練習終わりの大和と、駅までの帰り道を歩きながら、僕は聞いた。
「なあ、しんどくないの? 毎日、あんな練習して」
「しんどいに決まってんだろ」
あっさりとした答えだった。
「でも、やめる理由にはならねえよ。オッサンが見つけてくれた道だからな」
そう言った大和の横顔に、僕はまた、あの時の眩しそうな表情を思い出していた。
あの時――僕が大学進学を決めたと報告したとき、大和が浮かべたあの表情。
彼にとってのボクシングは、航さんが見出してくれた、大切な道だ。それは間違いない。
でも、それが本当に、彼自身が「選んだ」道だったのかどうか。当時の僕には、そこまで考えが至らなかった。
ただ、隣を歩く友人の横顔が、その日はいつもより、少しだけ疲れて見えた。




