第11話 ジムの匂い
「今度、大会あるから。よかったら見に来いよ」
大和がそう言ってきたのは、珍しいことだった。自分から何かに誘ってくることなど、それまでほとんどなかったからだ。
「試合、ってこと?」
「アマチュアの大会。まあ、大したもんじゃねえけど」
そう言いながらも、僅かに緊張しているような気配が、その口調から感じ取れた。
*
当日、僕は航さんと連れ立って、会場である地域の体育館へ向かった。
「大和のやつ、緊張してるだろうな」
道すがら、航さんがそう言って笑った。
「そうなんですか? いつも通りに見えましたけど」
「あいつ、ああ見えて分かりやすいんだよ。愛想笑いはできないくせに、緊張してるときだけは、変に無口になる」
その話を聞きながら、僕はふと、大和がジムに正式入会したときのことを尋ねてみた。
「航さんの紹介で入ったんですよね、ジム」
「ああ。俺が昔通ってたところでな。会長には、大和のこと、随分頭を下げて頼み込んだよ」
航さんは、懐かしそうに目を細めた。
「最初は、才能があっても怪我や事故もあるから、成功する保証なんてどこにもない、って結構渋られたんだ。将来のためにも、高校はちゃんと通わせろってな」
「それで、高校卒業を待ってから正式に入ったんですか」
「いや、高校自体はこっちの高校に転校させたけどな。ただ、あいつが中学の頃から、うちのサンドバッグ相手に見せてた才能は、本物だと思ってた。会長も、実際に一度パンチを受けてみて、目の色変えてたよ」
その話を聞きながら、僕は改めて、航さんという人が、大和のためにどれだけのことをしてきたのかを実感していた。
*
体育館に着くと、独特の空気が漂っていた。革の匂い、汗の匂い、そして張り詰めた緊張感。
控室からリングへ向かう大和の姿を、僕は少し離れた場所から見ていた。いつもの気だるげな表情は消え、代わりに、鋭い眼光だけがそこにあった。
試合が始まると、僕は言葉を失った。
大和のパンチは、素人目に見ても分かるほど、他の選手と一線を画していた。相手の動きを見切り、的確に、そして強烈に打ち込む。会場からどよめきが上がった。
結果は、圧倒的な判定勝ちだった。
試合を終えてリングを降りてくる大和の顔には、いつもの無表情の中に、微かな高揚が滲んでいた。
「すごかった……」
僕がそう言うと、大和は少し照れくさそうに、いつもの調子で返した。
「まあな」
その一言だけだったけれど、僕の胸の中には、今まで感じたことのない感情が渦巻いていた。
憧れ、というのだろうか。
拳一つで、あれだけの緊張感の中に立ち、結果を出す。教科書の中でしか戦えない自分とは、まるで違う世界だった。
*
帰り道、航さんが僕に言った。
「武田くんも、ボクシングやってみたいと思ったか?」
「いえ……そういうわけじゃないですけど」
僕は、正直に答えた。
「ただ、大和くんが眩しく見えました。自分の力だけで、あんな風に何かを証明できるのが」
航さんは、少し複雑そうな顔で笑った。
「まあ、あいつはあいつで、色々背負ってるからな」
それ以上、詳しくは語らなかった。
その日、家に帰ってからも、僕はしばらく、大和のあの試合中の眼光が頭から離れなかった。
自分にはない強さを持つ友人を、僕はこの時、心のどこかで、少し羨んでいたのかもしれない。




