第86話 彼女が見ていたもの
※この話は、珍しく、私――高橋葵の視点で綴ることにする。
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絵を描くことが、昔から、好きだった。
人と話すのは、あまり得意ではなかった。クラスの輪の中心にいるようなタイプでもなかった。それでも、ノートの端に、絵を描いている時間だけは、誰にも邪魔されない、私だけの世界だった。
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将来、絵で食べていきたい。そんな夢を、密かに抱いてはいたけれど、現実は、そう甘くなかった。
美大には進まず、地元の短大を出て、事務職として、細々と働きながら、趣味程度に、絵を描き続けていた。
プロになる自信も、勇気も、正直、なかった。
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「Suki」の絵師募集を見つけたのは、本当に、偶然だった。
ダメ元で、応募した。返事が来るなんて、ほとんど期待していなかった。
だから、採用の連絡が来た時、私は、信じられない気持ちで、何度もメールを読み返した。
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武田晴信さんとの、最初のやり取りは、事務的なものだった。
でも、彼が、私の絵を、本当に大切に扱ってくれていることが、メールの端々から、伝わってきた。
「イメージ通りです、ありがとうございます」
その短い一言に、私は、何度も、救われた。
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食事会で、初めて彼に会った時、思っていたよりも、ずっと、内向的で、優しい人だと感じた。
事業を成功させている経営者、というより、どこか、繊細さの残る、一人の人間として、私は、彼に、興味を持った。
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交際が始まってからも、正直、不安がなかったわけではない。
彼は、いつも忙しく、事業のことで、頭がいっぱいのように見えた。
それでも、私に対しては、いつも、誠実だった。忙しい合間を縫って、時間を作ってくれる、その姿勢に、私は、少しずつ、心を許していった。
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結婚を決めた時、私は、彼のことを、もう十分に理解しているつもりだった。
でも、それは、大きな思い違いだった。
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あの日、彼が、桜井大和さんという人物について、初めて詳しく語ってくれた時、私は、正直、大きなショックを受けた。
これほどまでの恩人の存在を、私は、何も知らなかった。
夫のことを、理解しているつもりでいた自分の、浅はかさを、思い知らされた瞬間だった。
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「なんで、今まで、話してくれなかったの」
そう聞いたとき、彼は、少し困ったように答えた。
「話すタイミングが、なかったっていうか……。それに、正直、うまく言葉にできる自信がなかったんだ」
その答えに、私は、複雑な気持ちを抱いた。
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でも、同時に、理解もできた。
命を助けられたこと、会社を守ってもらったこと。そんな大きすぎる恩を、日常会話の中で、軽々しく口にできるはずがない。
彼が、それを、ずっと、一人で抱え込んできたことに、私は、むしろ、切なさを覚えた。
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大和さんに、初めて会った日のことを、私は、今でも、よく覚えている。
噂に聞いていたような、恐ろしい人ではなかった。不器用で、素直になれなくて、でも、根っこのところに、誰よりも優しい心を持っている人だと、すぐに分かった。
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「桜井さんがいなかったら、私は、今、こうして、晴信さんと一緒にいられなかったかもしれない」
あの日、私が、大和さんに伝えた言葉は、決して、社交辞令ではなかった。
心の底から、そう思っていた。
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夫が、大和さんの恩返しのために、あれほどまでに、必死になる姿を見て、私は、時々、複雑な気持ちになることもあった。
もっと、自分や、家庭のことにも、目を向けてほしい。そう思う瞬間も、正直、あった。
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それでも、私は、夫の決意を、最後まで、支えたいと思った。
なぜなら、大和さんを救おうとする夫の姿こそが、私が惚れた、彼の本質だと、気づいたからだ。
優しくて、不器用で、一度決めたことは、簡単には諦めない。そんな夫の姿を、私は、誰よりも近くで、見てきた。
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大和さんが、アメリカで、王座を獲得したという報せを聞いた時、私は、夫と一緒に、心の底から、喜んだ。
それは、単に、夫の恩人が成功したという喜びだけではなかった。
この数年間、夫婦二人で、大和さんの再起を、必死に支えてきた、その全ての時間が、報われたような気がしたからだ。
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今、私は、絵師としての仕事を続けながら、家庭を守り、そして、夫と大和さんの、これから先の人生を、静かに見守っている。
自分自身の夢を、完全に叶えられたとは、まだ、言えないかもしれない。
それでも、この場所で、この人たちと共に生きていくことに、私は、確かな幸せを、感じている。
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これから先、私たちの家族に、どんな未来が待っているのか。
その全てを、私は、これからも、静かに、見届けていきたいと思っている。




