第2話 桜井大和という嵐
担任が教室に駆け込んできたのは、大和が席についてからほんの数十秒後のことだった。
「なんの騒ぎだ!」
床に伸びた東郷、腰を抜かした様子で壁際に座り込む三井。教室中の視線が、一斉に大和へ集まる。
けれど、大和は表情ひとつ変えなかった。まるで、自分には関係のない出来事だと言わんばかりに、窓の外を見ていた。
僕は、何も言えなかった。言うべきだったのかもしれない。「僕をかばってくれたんです」と。でも、口を開く前に、東郷が呻くように言った。
「こいつが、いきなり……」
そこで言葉が止まった。「いじめてた自分」の話までは、さすがにできなかったのだろう。
結局その日は、大和が保健室で軽い聴取を受け、僕たちは何も聞かれないまま解散になった。妙な静けさだけが、教室に残った。
*
翌日から、僕は妙な感覚に包まれていた。
誰も、僕をからかわなかった。
東郷は包帯こそしていなかったものの、心なしか顔が腫れていて、僕と目を合わせようとしなかった。三井に至っては、僕の存在自体が見えていないかのように、視線を逸らし続けていた。
クラス中の空気が変わっていた。今まで僕をからかうことに乗っかっていた連中も、大和の座る席の方角を、まるで猛獣の檻でも見るような目で見ていた。
――怖いから、もう関わらない。
そういう空気だった。理由はどうあれ、僕へのいじめは、その日を境にぴたりと止まった。
大和自身は、驚くほど何も変わらなかった。誰かに睨まれても表情を動かさず、休み時間はイヤホンをして机に突っ伏している。誰とも話さない。誰も話しかけない。
まるで、教室の中に一人だけ、違う時間が流れているようだった。
*
放課後、僕は勇気を振り絞って、大和の席に近づいた。何か言わなければいけない気がしていた。ただ、ありがとうと言うだけでいいはずなのに、言葉が喉の奥で絡まって出てこない。
「あの……」
大和がイヤホンを片方だけ外し、僕を見た。値踏みするような目だった。感情がないわけではない。ただ、簡単には人に見せない性質の目だと、僕はなんとなく察した。
「何?」
「昨日は、その……ありがとうございました」
僕は頭を下げた。深く、長く。
しばらく、返事はなかった。顔を上げると、大和は少し困ったような、それでいてどこか苦々しいような表情を浮かべていた。
「別に、お前のためにやったわけじゃねえよ」
その言葉は、思っていたよりも冷たく響いた。僕は何も返せず、突っ立っていた。
「……気に入らなかっただけだ。あいつらの言い方が」
それだけ言うと、大和はイヤホンを戻し、鞄を持って教室を出て行った。
僕はしばらく、その背中が消えた廊下の先を見ていた。
助けられた。それは間違いない。でも、感謝されることを望んでいない――そんな態度だった。
父親がいないことを馬鹿にされて、頭に血が上っただけ。彼はきっと、そういうつもりで言ったのだろう。
でも、僕にはどうしても、それだけには思えなかった。
あの日、東郷の胸ぐらを掴んだときの目。感情を押し殺しているようで、実はその奥に、僕なんかよりもずっと深い場所で燃えている何かがあるように見えた。
あれは、僕のための怒りじゃない。
あれはきっと――彼自身の、何かのための怒りだ。
そう気づいたのは、もう少し後になってからのことだった。




