第1話 殴られる理由
殴られるとき、僕はいつも数を数える。
一つ、二つ、三つ。そうしていると、痛みが自分のものじゃなくなる気がするからだ。今日は東郷の膝が二回、三井の靴先が一回。合計三つ。今週の平均よりも少し少ない。
「武田ってさ、マジで貧乏くさいよな」
東郷の声は、いつも通り愉快そうだった。笑っているとき、彼はとても機嫌が良さそうに見える。だから僕は、この時間がなるべく早く終わるように、機嫌を損ねないことだけを考える。
「父親いないんだっけ? 可哀想」
三井が付け加える。彼女の声には、僕への関心なんて一片もない。ただ、東郷が笑うから、自分も笑いたいだけだ。
僕は何も言わない。何かを言えば、数はきっと増える。
教室の隅、誰も見ていないふりをする視線の中で、僕はただ体を小さくしていた。母さんは知らない。先生も知らない。知っているのは、殴る側と、殴られる側だけだ。
僕の名前は、武田晴信という。
歴史の授業で、この名前を聞いた瞬間のクラスメイトの反応を、僕は今でも覚えている。「え、武田信玄じゃん」と、誰かが笑った。父が名付けたらしい。戦国最強と謳われた武将と同じ名前を、生まれたばかりの息子に――そう思ったのかは知らないが、聞くことはもうできない。
けれど、当の本人はと言えば、これだ。
軍神と呼ばれた男と同じ名を持ちながら、机の下で体を丸めて、蹴られる回数を数えることしかできない。
名前負け、という言葉があるなら、僕のためにあるようなものだと思う。
――このまま、高校の三年間もこうやって過ぎていくんだろうな。
そう思っていた。今日、この時までは。
「……何やってんの、お前ら」
聞いたことのない声だった。低くて、静かで、でもどこか刃物のような響き。
振り返ると、教室の入り口に、一人の男が立っていた。
転校生。名前は確か――桜井、大和。
一週間前にこのクラスへやって来たばかりで、僕はまだ、彼とまともに口を利いたことすらなかった。誰とでもそつなく話せる人懐っこさがあるくせに、休み時間はいつも誰かの輪の中心にいて、僕とは正反対の場所にいる人間だと思っていた。
その大和が今、東郷たちを見る目に、僕への嘲笑とは全く違う、燃えるような何かを宿していた。
その時の僕は、まだ知らなかった。
この男が、これから僕の人生を、三度も救うことになるなんて。
*
「は? 誰だお前」
東郷が振り返り、値踏みするように大和を見た。転校してきたばかりの、しかも自分たちが気に入って構ってやっていたはずの人間に凄まれるとは思っていなかったのだろう、その声にはまだ余裕があった。
大和は答えなかった。ただ、僕と、僕を囲んでいた二人を交互に見ていた。その視線が一瞬、僕の頬――今しがた三井に蹴られたあたりで止まった気がした。
「父親いないから可哀想、って言ったか、お前」
三井に向けられた声は、さっきよりも低かった。
「は? だから何? 事実じゃん」
三井は悪びれもせず笑った。その笑い方が、引き金だったのかもしれない。
次の瞬間、僕は目を疑った。
大和が、東郷の胸ぐらを片手で掴み上げていた。東郷の足が、宙で少し浮いた。
「て、めっ……離せ、お前、俺の親父が誰だか――」
「知らねえよ、そんなの」
感情のない声だった。だからこそ、恐ろしかった。
その後のことは、正直あまりよく覚えていない。悲鳴、机が倒れる音、誰かが先生を呼びに走る足音。断片的な記憶の中で、はっきりと覚えているのは、大和の拳が東郷の顔面に叩き込まれる瞬間の、乾いた音だけだ。
教室中が静まり返っていた。誰も止めようとしなかった。止められなかった、が正しいのかもしれない。
東郷が床に崩れ落ち、三井が悲鳴をあげて後ずさる。それでも大和の目からは、まだ何かがくすぶっているように見えた。まるで、殴っている相手が東郷たちではなく、もっと別の何かであるかのように。
「……もう、いいだろ」
気づけば、僕はそう口にしていた。自分でも驚いた。いつもなら、何も言えないはずなのに。
大和がこちらを見た。初めて、まともに目が合った。
燃えていた何かが、少しだけ静かになった気がした。
「……お前が我慢することじゃねえだろ」
それだけ言うと、大和は東郷たちに背を向け、何事もなかったかのように自分の席――僕の斜め後ろの席に座った。
教室のざわめきが戻ってくるまで、しばらく時間がかかった。僕はただ、呆然とその背中を見つめていた。
誰も僕を助けてくれなかった三年間で、初めて誰かが僕のために怒ってくれた。
それが、どんな理由からであれ。
――僕はこのとき、まだ知らなかった。
この男が両親を失っていること。この男もまた、誰にも言えない孤独を抱えていること。そして何より、この日をきっかけに始まる関係が、この先の僕の人生を、良くも悪くも大きく変えていくことになるとは。




