第八話 森の静寂と、兄の理
休暇四日目の朝。ベリルはカイルを連れて、屋敷の裏手に広がる深い森へと足を踏み入れていた。
かつて十五歳のベリルが家督を継ぎ、おなかをすかせた弟妹を養うために、泥にまみれて連日獲物を追い続けた場所だ。
「……カイル、歩幅を俺に合わせろ。足の裏全体で着地するんじゃない。指の付け根から土の感触を探り、ゆっくりと重心を移せ。音を殺すには足裏の感覚だ」
ベリルの歩みは、幽霊のように静かだった。カイルが必死に真似ようとするが、どうしても乾燥した枝が微かな音を立てる。
「……慣れだ。自分の呼気と心音を、風の音に同調させろ。気配を消すというのは、無になることじゃない。周囲の雑音の中に自分を溶かすことだ。逆に、獲物を探すときは目ではなく肌で感じろ。不自然な空気の淀み、鳥の声の途絶え……。森が語る違和感を拾うんだ」
ベリルが不意に足を止め、掌を立てて制した。
前方、巨木の根元。ベリルの身長を優に超える巨大な猪型の魔獣「グレートボア」が、地面を掘り返している。岩のように硬い毛並みと、丸太のような牙を持つ、この森の暴君だ。
「……まともにぶつかれば、騎士でも数人は持っていかれる。カイル、あそこの倒木が見えるか。あそこまで、風下から回り込め。俺が合図したら、あえて大きな足音を立ててボアを刺激しろ」
ベリルは鞘に収まったままの剣を手に取り、音もなく左手へ回り込んだ。
カイルが合図と共に枯れ葉を蹴立てると、グレートボアは苛立たしげに鼻を鳴らし、ベリルの狙い通り倒木の間へと逃げるように走り出した。
狭い通路に入り込み、さらに加速するボア。その刹那、ベリルは一瞬で距離を詰め、真横から肉薄した。ボアが邪魔な障害物を撥ね退けようと、凄まじい風圧を伴って牙を突き出してきた瞬間、ベリルは剣を抜くことさえしなかった。
牙の切っ先が、ベリルの衣服を微かにかすめる。 死の淵をなぞるような絶妙な紙一重の回避。
すれ違いざま、ベリルは鞘に収まったままの刀身を、ボアの首筋へ吸い付くように押し当てた。
咆哮を上げて疾走する巨体が、たった一本の鞘に弾かれたように、唐突にその軸をひん曲げられる。自らの猛烈な勢いに足をすくわれる形となったボアは、制御を失った肉塊となって地面を削り、激しく転倒した。
「……! 触れただけなのに」
カイルが息を呑む。ベリルは転倒したボアに歩み寄り、ようやく引き抜いた剣で、苦しませぬよう一突きで命を絶った。血を吸った刀身が、微かに青白い光を帯びる。
「カイル、よく見ておけ。……力でねじ伏せる必要はない。相手の意思がどこへ向かっているかを見ろ。突進の速さ、牙の角度、足の筋肉の緊張。動き出す前の情報を拾え」
ベリルは剣を拭い、再び鞘に収める。
「戦も狩りも同じだ。敵と刃を交えるときには、すでに勝敗は決していなければならない。本当の勝利とは、剣を抜く前に終わらせることだ。俺たちが今やったのは、戦いではなく答え合わせに過ぎない」
庭での手合わせで見せた、あの吸い込まれるような感覚の正体。カイルは、目の前の兄がただの剣士ではなく、全てを掌握するかのような軍略家の顔を持っていることに、薄寒いほどの戦慄を覚えていた。
「……お前には剣の才能がある。だが、その才能をただの力として無闇に振るうのではなく、最後の切り札として取っておけ」
淡々と解体作業を続ける兄の背中。そこには、過去を語る言葉などよりも遥かに重い、家族を食わせてきた者の凄みが宿っていた。
カイルは何も言えなかった。ただ、兄が解体を進める無駄のない手つきと、血の匂いが混じった森の静寂を、必死に目に焼き付けようと黙り込む。
「……重いぞ。担ぐのを手伝え」
不意に投げられた言葉に、カイルは我に返り、慌てて獲物の脚を掴んだ。ずっしりと肩に食い込む肉の重量感。
「ぐっ……うわ、重い……! 兄さん、今夜はボアの炭火焼きだよね? バラ肉を厚切りにしてさ!」
よろめきながらも食欲に目を輝かせるカイルを横目に、ベリルは自身の取り分を事もなげに肩へ放り上げる。
「いや、この時期のボアなら、薄く切って炙るのが一番だ。岩塩だけで十分旨い」
「えーっ、もったいないよ! 母さんの香草ソースをたっぷりつけて、外側をカリッと焼いた方が絶対美味しいって!」
「……わかってないな。この脂の甘みは、余計な味付けをしない方が引き立つんだぞ。……あ、待て。こっちのロースはリナに煮込んでもらおう。葡萄酒をたっぷり使って、じっくり火を通すのもいいぞ」
「うわ、それもいい! 結局どれも最高じゃないか! 兄さん、足止まってない? 早く帰って母さんとリナに準備してもらおうよ!」
「……急かすな。肉を落としたら、お前の分を減らすぞ」
「それは困る! 絶対に落とさないから!」
夕闇が迫る森の中、二人の兄弟は獲物を分け合い、長い影を引きながら屋敷へと歩き出した。




