第七話 落日の追憶と、母の温もり
夜。弟妹たちが自室へ引き上げ、屋敷が静まり返った頃、ベリルは一人で居間にいた。
暖炉の火が爆ぜる音だけが響く中、奥の部屋から足音が近づいてくる。母親のエレンだ。彼女は手にした木盆を、ベリルの前の古びた机に置いた。温かな香りを漂わせるハーブティーと、少しのチーズ。そのささやかな夜食が、当主としての張り詰めた緊張を緩やかに解いていく。
「ベリル、まだ起きていたのね。……あまり無理をしてはだめよ」
エレンは隣に腰を下ろし、息子の横顔を見つめた。
かつて、この家を背負うと決めた十五歳の日の面影はもう薄い。今の彼の顔には、戦場で刻まれた皺と、家族を支え抜いてきた年月が深く刻まれている。
「母さんこそ、夜なべは体に響く。……カイルもリナも、逞しくなった。他家へ行った三人からも便りがあったよ。皆がこうして笑っていられるのは、母さんが家を守ってくれたからだ」
ベリルが静かに家族の無事を噛みしめるように言うと、エレンは小さく首を振った。
「感謝を言いたいのは私のほうよ。……父さんが、深手を負って戦場から帰って来た日。まだ十五だったあなたの手を握って『頼む』とだけ言い遺した、あの時のことを今でも思い出すわ」
ベリルはハーブティーの湯気を見つめ、静かに目を伏せた。
本来、騎士爵領を継ぐには、十六歳から王都の騎士学校で学び十八歳の成人を以って騎士の称号を得るのが一般的であった。だが、当時のベリルにその選択肢はなかった。学費すら事欠く中、彼は家族を養うため、一兵卒として戦場へ出る道を選んだ。
その境遇を知った辺境伯が示したのは、古きしきたりに則った過酷な提案だった。
「時はかかるが従騎士として下積みを重ね、実力で騎士と認められるならば、今暫く家名と領地の存続を認めよう」と。
それからベリルは実戦の最前線で騎士に付き従い、厳しいしごきに耐え、必死の思いでその技を盗み、学び続けた。剣を振るうこと以上に家族のために生きることに必死だった日々。そうしてようやく騎士として認められたのは、同世代よりも数年遅れた、二十歳を過ぎてからのことだった。
「……大変だったし、遠回りもしたけど、今はそうしてきて良かったと思っているよ」
ベリルが穏やかに笑うと、エレンの手が、ベリルの節くれだった大きな手に重なった。必死になって家族を支えてきたその手が、母の温もりによって、ただの息子の手へと戻っていく。
「ベリル、あなたは本当によくやってくれたわ。もう、自分を後回しにするのは、おしまいにしていいのよ。これからは自分の為に生きなさい」
母の温もりが、冷えた指先から胸の奥へと伝わっていく。
「……俺の、ために」
「そう。あなたが元気な顔で帰ってきてくれる。それだけで、私たちは救われているの。今回の休暇くらい、ただの息子に戻って、ゆっくりおやすみなさい」
ベリルは深く息を吐き、母の手を優しく握り返した。 明日になれば、また頼れる長男として、あるいは小隊長として、背筋を伸ばさねばならない。だが今夜だけは、この小さな温もりに身を任せ、穏やかな眠りについてもいいような気がした。
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翌朝、台所からはリナの弾んだ声と、パンの焼ける芳醇な香りが漂ってきた。
「さあ、ベリル兄さん、起きて! 今日は馬小屋の屋根と畑の柵、午前中に終わらせるって約束でしょ!」
休暇三日目。容赦ない妹の呼び声に、ベリルは苦笑いしながら、重い腰を上げた。窓から差し込む朝日は、かつて戦場で見たどの光よりも、穏やかで明るかった。




