第六話 朝露の訓練と、兄の背中
休暇二日目の朝。ベリルは軍での習慣そのままに、太陽が顔を出す前に目を覚ました。
古い屋敷の庭に出ると、そこにはすでにカイルがいた。露に濡れた草を踏みしめ、一心不乱に木剣を振る音が静寂を切り裂いている。
「カイル、腰が高いな。重心が浮けば、どんなに鋭い一撃も力は伝わらないぞ」
不意にかけられた声に、カイルは驚きつつも、歓喜に瞳を輝かせた。ベリルは傍らに立てかけてあった練習用の木剣を手に取り、無造作に構える。
「……打ってこい。俺の体に当てるだけでいい」
カイルは迷わず踏み込んだ。ベリルの「強さ」に憧れる彼は、これまで幾度となくその背中を追ってきた。しかし、カイルが放つ渾身の連撃は、ベリルの最小限の動きによって、まるで磁石の反発のように受け流されていく。
「……っ、全然当たらない! ベリル兄さん、動いていないように見えるのに、どうして!」
「カイルの剣筋はとても素直で綺麗だけど読みやすい。だから力でねじ伏せるのではなく、相手の勢いを利用して、わずかに軌道を逸らすだけでいいんだ」
カイルは一度呼吸を整えると、再び猛然と突っ込んだ。今度は先ほどよりも速い。ベリルはカイルの打ち下ろしに対し、自分の木剣を添えるように当てた。
カイルの木剣の側面にベリルの木剣が触れた瞬間、カイルの剣先は吸い込まれるように地面へと叩きつけられた。ベリルは力を入れていない。ただ、カイルの力がそのまま地面へ流れるように道を作っただけだ。
だが、その直後だった。地面に叩きつけられたはずのカイルの剣が、まるで最初からそれを予期していたかのように、しなやかに跳ね上がった。
ベリルの流しの勢いをそのまま回転力に変え、下からベリルの顎を狙う鋭い斬り上げに転じたのだ。
(……! 完全に受け流した勢いを、そのまま利用したか……!)
ベリルは反射的に、騎士としての本能で半歩後ろへ跳んで回避した。カイルの木剣が、ベリルの顎先を数センチの差でかすめて空を切る。
戦場であれば、この半歩こそがベリルの生存圏を守る最後の境界線。それを弟に強制的に踏ませた事実に、ベリルの背中に薄く冷や汗が流れた。
「……あーあ、やっぱり当たらないや。これならいけると思ったんだけどなぁ」
カイルは木剣を肩に預け、ケロッとした顔で笑った。
「ベリル兄さん、今のをひらりとかわしちゃうんだもん。やっぱり全然敵わないや。僕の負けだね!」
自分がどれほど異常なことをやってのけたのか。ベリルの助言を一瞬で理解し、あろうことか戦場帰りの兄に冷や汗をかかせた自覚が、この少年には微塵もない。
ベリルは止まらない動悸を抑えながら、弟の無防備な笑顔を見つめ、複雑な苦笑いを浮かべた。
「……ああ。お前は、俺が思っている以上に早く、俺の手を離れていくのかもしれないな」
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昼前、ベリルはリナに呼び出されていた。
「ほら、ベリル兄さん! ここ、去年からずっと土台が緩んでいたのよ」
リナが指差したのは、屋敷の裏手にある物置の石積みだ。戦場では守備隊の小隊長も、ここではただの器用な長男である。彼は軍服を脱ぎ、袖をまくり上げると、慣れた手つきで重い石を運び、土を突き固めていく。
「リナ、ここの補強が終わったら、次は井戸の滑車の調整だな」
「助かるわ。カイル兄さんは剣のことばかりだし……。やっぱり、頼りになるのはベリル兄さんだけね」
リナが差し出した冷たい水を受け取りながら、ベリルは穏やかに笑う。土にまみれ、石を運ぶ。その単調な作業こそが、戦場での血の匂いや緊張を、ベリルの内側から少しずつ洗い流してくれた。
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夕暮れ時、ベリルは一人、村の鍛冶場を訪れた。ふいごの音が響き、真っ赤に熱せられた鉄が打ち鳴らされる音が、騎士爵領の静かな空気に溶け込んでいく。
「……モルド親方、調子はどうだ」
「よう、ベリル。相変わらずよ!お前も元気そうだな!少しは偉くなったのか」
ドワーフのモルド親方がベリルの背中をドンと叩く。
「剣を見て欲しいんだろ、ちょっと貸してみろ」
そう言って親方は剣を預かると慣れた手つきで刀身から鍔と柄頭を外し片目を瞑って歪みと刃毀れを確認する。
手際よく小槌でトントンと叩いた後、研ぎを入れた。
「ふむ、なるほどな、この刀身。前のままでも悪くはなかったんだが、わずかに変化してやががんな」
「多くの魔獣を屠ったせいだろうな。この剣、お前さんの闘気に呼応して、わずかに魔力を帯び始めてる。もはや普通の鉄とは呼べねえ領域に入りつつあるぜ」
「使い手次第だが、鉄すら斬れるかもな」
親方は鋭い眼差しで、その剣をベリルに手渡した。
剣は、以前よりも鈍く、どこか底知れない光を放っている。その刀身を指でなぞると、奇妙な熱を帯びているのがわかった。
「……柄頭の重さを調整して、今のお前さんに合わせておいた。この剣は、お前の親父さんの思いが詰まっている……あんまり無理すんじゃねえぞ」
職人らしい無骨な気遣い。ベリルは黙って頷き、再び鞘に剣を収めた。
騎士としての日々と、家族としての日常。 その境界線に立つ一週間の休暇が、ゆっくりと過ぎていく。




