第六十三話 朱に染まる戦場
霊峰の頂きから東の空が白み始め、夜の帷がゆっくりと剥がれ落ちていく。
天幕から這い出したエリス・ラングレンは、冷え切った朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、西側の平原を見渡した。
「……霧が、ない」
本来ならこの時期、夜明けの平原は特に濃い朝霧に包まれるはずだった。しかし、視界の遠く先にある帝国軍の陣営までが、不気味なほど鮮明に見渡せる。
ベリルが言っていた通り、氷の洞窟を溶かし地表の熱が上がったのだ。 エリスは、遠く霊峰の裾野で未だ戦い続けているであろう男たちの工作が成功したことを確信し、小さく拳を握りしめた。
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王国軍の陣営には、昨日までの沈滞した空気は微塵もなかった。 兵たちは静かに、しかし確かな殺気を帯びて出陣の準備を整えていく。
やがて、全軍がベリルの指定した境界線――二つの大岩を結ぶ防衛線へと進軍し、堅牢な防御陣形を敷いた。
その最前線、誰の目にも留まる位置に一頭の白馬が歩み出ると王国軍にざわめきが起こる。
「アステリア王国に生きる諸君よ、聞け!」
ジュリアス王子の声が、朝の静寂を切り裂いた。
「我らは昨日、多くの友を失った。だがこれ以上! アステリア王国の誇り、そして未来を奪うことは、何人たりとも許さぬ! 私が先頭に立つ。私の背を追い、この地に平和を取り戻すのだ!」
ジュリアス王子の咆哮に呼応するように、兵たちの口から怒号にも似た歓声が沸き上がった。
「「「ジュリアス殿下万歳!! アステリア王国に栄光を!!」」」
天を突くような雄叫びが平原を震わせる。中央後方でその様子を見守るグレイスタイン辺境伯は、そっと視線をノースウォール霊峰へと向けた。
(……ベリル、賽は投げられたぞ)
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一方、帝国軍の陣営は不審な騒ぎに包まれていた。
「何だ、あの騒ぎは……。王国軍め、逃げ隠れもせず打って出てきたというのか?」
「昨日の惨敗で気でも狂ったか?」
物見の報告を受けた将兵たちの間に、驚きと嘲笑が広がる。
ところが、
「士気が下がっているどころか、異様に高ぶっています。」
「……見ろ、最前線にいるのは、あの旗印はジュリアス・アステリアだ!」
その報告に、帝国軍の空気は一変した。
「今日は大手柄を立てられそうですね」
ユースタス・ベルンはほくそ笑む。
「王子の首だと? 最上級の大将首ではないか!」
「ふん、自ら死地に飛び込んでくるとは、おめでたい王子様だ」
将兵たちの間に、功名心という名のどす黒い熱狂が伝播していく。
「自ら陣頭に立って鼓舞するとは、見上げたものよ。しかし、これまでだ」
バルカス・ドラクロワは戦鎚を携え騎乗した。
ゾルタン・ディートリヒもまた、その熱に浮かされた一人だった。
「防御陣形だと? 籠城もせず、平原の真ん中で足を止めるなど愚策の極み。……全軍、中央突破の攻撃陣形を組め!」
普段の彼ならば慎重に様々な可能性を疑うところだが、王子の首という甘美な餌を前に、その冷静さはわずかに、しかし致命的に欠けていた。
その傍らで、セレス・ヴァレンタインは血眼になって王国軍の隊列を睨みつけていた。
「どこだ……どこにいる。あの非常識な男は……!」
彼女の瞳は、グレイスタイン辺境伯の軍旗の下に蠢く影を、一人残らず焼き殺さんばかりの憎悪で追っていた。
太陽が地平線から完全に顔を出し、平原を朱に染め上げる。
―――ボォォォォォォ――ッ!!
開戦を告げる角笛が、高らかに鳴り響いた。




