第六十二話 勝者の傲慢と燻る怒り
帝国軍本陣。
勝利の美酒に酔いしれる兵たちの喧騒とは対照的に、諸侯が集う天幕の中には、肌を刺すような緊張感と、複雑に絡み合う感情が渦巻いていた。
「……緒戦は、我らの完勝と言っていいだろうな」
卓上の砂盤を見下ろし、ゾルタンが静かに口を開いた。
彼の練り上げた策は完璧に機能し、王国軍の主力レオン・ボルドーをはじめとする多くの将兵を血の海に沈めた。王国軍は文字通り総崩れであり、もはや再起不能なまでの打撃を与えたはずだった。
だが、その戦果に反して、天幕内の空気は重く沈んでいた。
「完勝だと? 笑わせるな」
地を這うような低音で吐き捨てたのは、『鉄槌』バルカス・ドラクロワだ。その拳は、敬意を払っていた重鎮グスタフ・クローネ公爵を失った怒りに震えている。
「老公……クローネ公を失ったのだぞ!王国をなぶり殺したところで、我が軍の損失が消えるわけではないぞ」
「おやおやドラクロワ卿。そう顔をしかめては、せっかくの勝利の美酒が台無しですよ」
バルカスの苛立ちを軽薄に笑い飛ばしたのは、『蒼氷の伯爵』ユースタス・ベルンだった。
彼は自らの手でレオン・ボルドーを討ち取り、数多の将兵を屠った高揚感から、気取った手つきでグラスを揺らしている。
「名門ボルドーの跡取りを筆頭に、これだけの将兵を血祭りにあげたのだ。老公の死も、帝国のさらなる栄光のための尊い犠牲……。そう考えれば、安い買い物ではないかな?」
「貴様……!」
バルカスが腰の獲物に手をかけようとしたその時、天幕の温度が急激に上昇した。
「……黙れ」
冷気を焼き切るような声の主は、『紅蓮の鴉』セレス・ヴァレンタインだった。
彼女の周囲には、制御しきれない魔力が陽炎となって揺らめいている。 その美貌は、憎悪によって歪んでいた。
グレイスタイン辺境伯、そして『銀影』エリス・ラングレン。確実に仕留められたはずの獲物を、土壇場で取り逃がしたこと。それが彼女の誇りを激しく傷つけていた。
だが、何よりも彼女を狂わせているのは、自分自身の「敗北感」だった。
(あの男……あの、得体の知れない男め……!)
自分の全力の火炎魔法を、呪文も詠唱もなしに、ただの剣の一閃で「斬った」あの非常識な男。魔導の深淵に生きるセレスにとって、それは理屈を超えた冒涜であり、耐え難い屈辱だった。
「あの男……必ず、私の火刑台で焼き尽くしてやる。骨の一片すら残さない……!」
セレスの指先から火花が散り、天幕の床を焦がす。
「明日は、もはや策など不要か」
ゾルタンは、内紛寸前の将たちを一瞥し、冷静に戦況を分析する。
「王国軍は総崩れだ。明日は野戦か、あるいはエストレアへ逃げ込むなら攻城戦か……。どちらにせよ、もはや奴らに策を弄する余力などない。打って出てきたところで、あの低い士気では蹂躙されるのを待つだけだ」
「どちらでも構わん。どちらにせよ、俺がすべてを粉砕してやる」
バルカスが血走った目で唸り、セレスが地獄のような紅蓮の瞳で頷く。
「ハハッ、死に体となった王国軍がどんな無様な足掻きを見せるか、楽しみだね」
ユースタスが不敵に笑う。
帝国軍の総意は一つ。圧倒的な武力をもって、生き残った者たちを蹂躙するのみ。
「首を洗って待っていろ、王国軍。……そして、あの男」
セレスの呪詛のような呟きが、夜の帳に溶けていった。




