第六十一話 英雄の真実と決意の旗
王国軍本陣。敗走の色が濃くにじみ、重苦しい沈黙が支配する野営地に、一頭の騎馬が土煙を上げて駆け込んできた。
「お、おい……あれは、ラングレン副団長じゃないか!?」
「生きていたのか! 戻られたぞ、副団長が!」
辺境伯兵たちのどよめきと、絶望の淵から湧き上がった歓喜の声を背に、エリスは馬を乗り捨て、王国軍の天幕へと駆け込んだ。
「エリス・ラングレン只今帰陣いたしました」
「エリス! 無事だったか!」
ヴィクトール・グレイスタイン辺境伯が椅子を蹴立てて立ち上がった。
「よくぞ戻った!ガスト隊はどうした!? ヴァルターの奴は、ベリルは無事なのか!?」
「……落ち着いてください、伯父様……いえ、閣下。彼らは今、ノースウォール霊峰にて反撃の準備を整えています」
エリスは息を整え、ベリルから託された作戦の詳細を伝えた。
---
「……霊峰の温泉を氷の洞窟に流し込み、平原を陥没させる、だと?」
あまりにも大それた話に一同騒然とする。
クラリス・ローゼンが、信じがたいものを見る目でエリスを見つめた。
「不確定要素が多すぎます。もし地盤が落ちなければ、士気の下がった我が軍はなぶり殺しにされますわ」
「ですが、籠城して領都エストレアが戦火にまみえるよりは、賭けてみる価値はあります」
アイリス王女が鋭い眼差しで主張した。この賭けに軍の命運を乗せるべきだと彼女は直感していた。
それでも、王国騎士団長ジークハルト・ベルシュタインは慎重だった。
「全軍の命を預かる身として、一介の小隊長の策に、王国軍の命運をすべて委ねるわけにはいかん……」
重苦しい沈黙が流れる中、ヴィクトールが低く笑い声を上げた。
「……ベルシュタイン卿よ、貴殿は知らんだろうが、先のガンダル砦での戦いで勝利をもたらしたのは…彼だ」
天幕内の空気が凍りついた。今回の戦の前哨戦、ゾルタンが三千の精鋭で攻め寄せたにもかわらず、寡兵にもかかわらず一夜にして殲滅されたあの件だ。
「あれは確か、大規模な土石流による偶然の勝利だと報告されていますが……」
近衛騎士隊副隊長オスカー・グリンガルドが口を挟む。
「偶然ではない」
ヴィクトールがオスカーの言葉を遮った。
「貯水池を破壊し、山肌に周到な工作を施して、狙い違わず帝国軍の頭上へ土石流を叩き落とした男がいた。その策を立案し、実行した張本人こそ――今、ノースウォール霊峰で工作を行なっているベリル・ガストだ」
エリスは静かにその言葉を聞いていた。かつて会議でその話が出た際、彼女はそれを半信半疑で聞き流していたが、今のベリルの姿を見て、その確信を得ていた。
「……彼の策に、間違いはありません。それに先程も、たったひとり敵陣に残った私を、わずかな手勢で助け出してくださいました」
エリスの断固たる言葉に、天幕の面々は戦慄した。あの冷徹なまでの戦術眼と、不可能を可能にする実行力。一介の小隊長という枠には収まりきらない「怪物」の存在が、重く突きつけられた。
---
「……ならば、その力を信じてみようではありませんか」
静かに、しかし王者の威厳をもって口を開いたのは、ジュリアス王子だった。
「私自身が先頭に立ち、王国軍を鼓舞しましょう。帝国軍も、私の首が目の前に現れれば、冷静さを欠いて躍起になるはずだ。彼らをベリル・ガストの用意した罠の上まで引きずり出すには、それ以上の餌はあるまい」
「殿下、自ら矢面に立たれると!?」
「ベリル・ガストが大地を崩すというのなら、私はその上で踊ってみせよう。アステリア王国の誇りにかけてな」
ジュリアス王子の揺るぎない決意に、躊躇していたジークハルトも、反対していたクラリスも、最後には深く頷いた。
霊峰から流れる熱水が静かに地下を穿ち、本陣では王子の決意が兵たちの魂に火をつける。王国軍の反撃の火蓋は、今、確実に切って落とされた。




