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不戦の外套〜臆病者と蔑まれた騎士の英雄譚〜  作者: nyancos


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第六十話 冷徹なる導火線

 霊峰の頂を飲み込むような夕焼けが、眼下の平原を赤く染め上げていた。


 迫りくる夜の帳を前に、ガスト隊の周囲には温泉の熱気と、ある計画への静かな熱気が立ち込めている。


(どうすれば地下の氷床を一晩で溶かせる…)


「はい、お疲れさん。まずは腹に何か入れなー。夜になったら本格的に冷え込むよ」


  ニコが、湯気の立ち込める大きな木皿を抱え、隊員たちの間を回る。夕闇に沈みつつある岩陰で、疲弊した面々が次々とその温もりに手を伸ばした。


「おっ、なんだこれ! いつもの干し肉が、驚くほど柔らかいぜ!」


 ヘルガが驚きの声を上げた。ニコは沈みゆく夕日に目を細めながら、いたずらっぽく微笑む。


「源泉に香草を入れて、ゆっくり戻しておいたんだー。柔らかくなって獣臭さも消えてちょうどいい食べ頃でしょー?」


 さらにニコは、温泉の蒸気が噴き出す岩の隙間に黒パンを並べ、ふっくらと蒸し上げていた。


「黒パンも蒸して柔らかくして、とっておきの蜂蜜をかけておいたよー」


「わぁっ! 本当だ、ふかふか! 蜂蜜まで……ニコ、最高だよ!」


 ルルが、熱々の黒パンを頬張って目を輝かせる。すると、シオンが、蜂蜜の甘い香りに誘われるように、すぅーっと音もなく近寄ってきた。


 シオンは蜂蜜をかけた蒸し黒パンを手に取ると、ナイフで半分に切り、その上にハーブで戻した干し肉をのせ、サンドイッチのように挟んで口に運んだ。


「……! うわぁ………蜂蜜の甘みと、肉の塩気が絶妙に重なる……この『甘じょっぱさ』、新発見だ!このパンと肉の絶妙な塩気はなんでだろう。単体では成立し得ない要素が互いを引き立て合い、味の奥行きが――」


「おいおいシオン、お前、やけに饒舌だな。そんなヤツだっか?」


 ガストンがニヤニヤしながら肩を突くと、シオンはハッとして、慌てていつもの無表情を装った。


「ふ、ふん。……悪くないな……甘みは頭の回転を速め、斥候としての判断力が高まる……塩気は……その、筋肉の疲労をだな……」


「はいはい、わかったから。顔に蜂蜜ついてるわよ、天才斥候さん」

ミラが自分の口元に指を指す


「なっ……!」


「でも、さすがはシオンだねー。実はこの温泉に塩気があるんだよ。たぶんここら一帯は岩塩なんだろうねー」


「本当かぁ、どれどれ、ペロッ、しょっぺぇ」


「もう、ヘルガ!何でもかんでも舐めないで!」

 ルルがヘルガの尻尾を引っ張る。


 少し離れた場所で、エリスも配られた「甘じょっぱいサンド」を口に運んでいた。

「……ふふっ」


 夕日に照らされ、冗談を飛ばし合う彼らの逞しい横顔。過酷な撤退戦の最中とは思えないその光景に、エリスはいつの間にか自分の肩の力が抜けていることに気づいた。


(塩気のある温泉に岩塩か………!!)


 ベリルがバルト爺さんの方を見ると、バルト爺さんがにんまりと頷いた。



---


「食べながらでいい。聞いてくれ」

 

 空は少しずつ深い紫へと移ろい始めていた。


 ベリルは影の伸び切った平原を指し示した。 語られた前代未聞の作戦に、隊員たちは一瞬絶句したが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。


「ひっひっひ……また隊長の悪巧みが始まったぜ」


「まったくだ。ただ逃げ出すだけじゃあ、『不戦の外套』の名が廃るからな」




 ベリルの号令一下、洞窟の中で精鋭たちが一斉に動き出す。


「ガラム! 右の岩盤が脆い、一気に叩き割れ!」

「任せろ、グレン! お前はその裂け目に杭打ちを打ち込め!」


 怪力のガラムが振り下ろす戦鎚が火花を散らし、グレンが砕けた岩の裂け目に機械仕掛けの杭打ちガントレットを叩き込むーーーその瞬間。


―――ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ


「いかん!!全員離れろ!!洞窟からあがれ!」バルト爺さんが血相を変えて叫ぶ。


―――ドォォォォォーーーーーーッ


 勢い良く温泉が噴き出る。


「あつっ、うわっ!あっちぃ!」

湯気に当てられガラムたちが顔を真っ赤にして逃げ帰る。


「よし、仕上げだ。お前たち、今からここにある岩塩全部粉々にして温泉に混ぜるんだ…朝までずっとだ」


「なんで岩塩なんて入れるんだ?」

 ライアンが首をかしげる。


「氷に塩をかけるとね、ただの水よりずっと早く溶けるようになるのよ。それをこの熱い温泉に混ぜて流し込めば、地下の氷を根こそぎ溶かせるはずなのよ!」

 ミラが胸を張って説明する。


「なんで塩水だと氷が溶けるんだよ?」

 ガストンが納得できない表情で問う。


「オレ、知ってるぜ!ナメクジに塩をかけると溶けるんだぜ」


「ヘルガ……全然違うわ………簡単に言うと、氷が温泉から熱を奪いやすくなるのよ」


「「「なるほど…わからん」」」

 脳筋一同が首をかしげる。


「あー、もう! 理屈はいいから、とにかく今は手を動かせ!」

 しびれを切らしたマルクの怒鳴り声が響く。


「「「へーーーい」」」

 脳筋たちは納得できない顔をしながらも作業に勤しんだ。



---


 皆に作戦を告げたあと、ベリルはエリスに向き合った。


「副団長、不躾なお願いですが……大役を任せてもよろしいでしょうか。……今すぐ本陣へ戻り、辺境伯閣下と団長に伝令をお願いします」


 エリスは副団長としての鋭い眼差しをベリルに向けた。


「……。ガスト隊をここに残して、私だけが安全な本陣へ帰れと言うのですか? ベリル、私を侮らないでいただきたい」


「閣下たちを説得し、軍を動かせるのは副団長である貴女しかいないからです」


 ベリルは真摯な面持ちで、闇に溶けゆく平原を見つめた。


「明日の朝、平原に霧が立っていなければ、工作は成功です。もし野戦を続けるようであれば、あの平原に見える、ちょうど『二つの大岩の間』……あそこから前には、決して軍を出さないように伝えてください。どれだけ帝国が挑発してきても、です。反対に敵を誘い込んでください」


「……進軍せず、敵を誘い込め……と。つまり平原の霧の帯の上で敵を釘付けにせよ、というのですね?」


エリスは即座にベリルの意図を汲み取った。


「帝国軍の重装騎兵がその場所に乗れば……いずれ崩落すると思われます。しかし確証はありません……場合によっては王国軍全体を危険にさらす賭けなのです」


 エリスはしばし沈黙した後、力強く頷いた。


「……わかりました。私が責任を持って通しましょう」


 エリスは馬の手綱を握り、夜の入り口へと視線を向けた。


「貴方の策、信じます。……ベリル、皆さんもどうかご無事で。明日、戦場で会いましょう」


 副団長としての毅然とした態度で告げると、エリスは風のように駆け去っていった。


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