第五十九話 霊峰の湯霧と氷の罠
「隊長、追手は完全に巻けたようだ」
シオンが後方から追いついて来た。
「わかった、あそこの岩陰で休憩しよう。広そうだ」
ベリルが休憩を指示する。
息を切らした三十余名の軍勢が束の間の休息を始める。
ノースウォール霊峰。春先とはいえ標高の高いこの地には、未だ厚い残雪が岩肌を覆っている。
日が西へと傾きはじめ雨が上がったものの、代わりに襲いかかってきたのは骨まで凍てつくような冷気だった。
「ひ、ひいぃ……凍死する……。戦いより先に寒さで全滅しちまうぜ」
アルノーが青白い顔で震える。
ずぶ濡れのガスト隊一行は、ガタガタと震えが止まらない。エリスも顔を青白くさせ自らの腕を抱きしめている。
「火を焚こうぜ、隊長……。じゃなきゃマジで死ぬ」
ガストンが火種を取り出す。
「ダメだ。煙を上げれば帝国の追撃隊に居場所を教えるようなものだ」
ベリルの冷静な判断に隊員たちが絶望したその時、ライアンが鼻をピクつかせた。
「……ん? なんだ、この臭いは……。おい、ちょっと待ってろ」
ライアンは身を隠しながら斜面を駆け上がった。
「ちょっ、どこ行くんですか。怒られますよ。」
デニスが震える声で引き止める。
しばらくしてライアンが興奮した様子で戻ってきた。
「こっちだ! 天国を見つけたぜ!」
導かれた先には、岩の隙間からボコボコと吹き出す天然の温泉があった。
「源泉か! だが熱すぎるな。おい、あそこの窪みに水路を掘れ! 雪を突っ込んで温度を調整するんだ!」
ベリルの指示で、男たちは手早く即席の露天風呂を作り上げた。
---
「一番乗りだぜ!」
ヘルガが勢い良く温泉に飛び込む。
「いい? 覗いたら本当に殺すからね」
ミラとニコの殺気立った警告に男たちは一斉に背を向けた。
「隊長は私と一緒に入りましょうね」
ルナがベリルを誘惑する。
「はいはい…行くわよルナ」
ルルが引っ張って行く。
岩陰に外套で仕切りを作り、女性陣とエリスが先に湯に浸かる。
「……生き返るわ」
エリスが小さく息を漏らす。凍傷寸前だった身体が、大地の熱に解きほぐされていく。
「おい、まだか…早くしてくれ…」
我慢できずにセドリックが外套に触れようとした瞬間、隙間から刃が覗く。
「ひぃ…………」
その後、交代した男たちも湯に浸かり、束の間の休息を享受していた。
ベリルは、湯に浸かりながら眼下に広がる平原を見下ろしていた。
(王国軍は戦線を離脱したようだ、しかし、だいぶ軍勢が減ってるようだ………ん⁉)
雨上がりの平原には、南北に細長い「帯」のような濃い霧が幾筋も立っていた。
「全体に霧が出てるわけじゃないのか……」
ベリルは隣で湯に浸かるバルト爺さんに問いかけた。
「バルト爺さん、あの霧は何だ? なぜあんな帯状になる」
バルト爺さんは湯気を吸い込みながら説明した。
「あそこはおそらく、地下に氷の洞窟が広がっているんだろうよ。山から流れ出た水や雪が地下で凍っとるのよ。その温度差がああして霧を呼ぶんだ。あれだけ霧が濃いけりゃ地表近くまで氷が侵食してるかもな。ほら、そこでチョロチョロ水が流れている洞穴。あそこなんかが洞窟への入り口だろうよ」
「……もし、その氷が全て溶けたらどうなるんだ」
「そりゃあ地下にポッカリと巨大な空洞ができる。時折ドワーフの坑道でもぶち当たるんだ、ただな侵食で天井が脆くなってて、崩落して危ねぇんだ」
「どうして溶けるんだ」
「地熱の変動さ。だが、そう滅多なことじゃ……」
ベリルは、激しく湧き出す源泉を見つめた。
「……バルト爺さん。もし、この熱い源泉を、あの氷の入り口に流し込んだらどうなる?」
バルト爺さんは呆気に取られたようにベリルの顔を見た。
「まぁ少しずつ溶けていくだろうな。ある程度溶けりゃあそこからは早いもんだ。だが、それじゃあ平原の真ん中に………お前………」
「後でそこの洞穴を覗いてみよう。バルト爺さんついて来てくれ。マルクとミラにも声をかけておく」
バルト爺さんは言葉を失った。そこにはあの時と同じ、悪巧みを思いついた冷徹なベリルの顔があった。
---
温泉で温まった体も、洞窟の一歩奥へ足を踏み入れるなり、再び鋭い冷気にさらされた。ベリル、バルト、マルクそしてミラの四人は、岩肌が剥き出しになった狭い穴を潜り抜ける。
「……こりゃあ、たまげたな」
「幻想的ね」
先頭を行くマルクとミラが、掲げたランプの光に息を呑んだ。
そこには、地上の草原からは想像もつかない、幻想的で禍々しい光景が広がっていた。
洞窟の奥つまり平原の地下は、巨大な空洞になっていた。だが、その壁面も天井も、岩肌が見えないほどに分厚い氷の層で覆い尽くされ、その下を小川が流れている。
「爺さんの言った通りだ。この氷の殻が、かろうじて天井を支えている状態だな……」
ベリルが氷の壁に手を触れる。体温で表面がわずかに溶け、指先が吸い付くような感覚があった。
「ミラ、やれるか」
ベリルの問いに、ミラは無言で頷き、氷の壁にそっと両手を当てた。
「……水の精霊たち、水底の姿を教えて……」
彼女が目を閉じ、精霊魔法の詠唱を始めると、淡い青光が氷の層を伝わって奥へと浸透していく。ミラの脳内には、目に見えない地下の地図が描き出されていった。
「……すごいわね。この水脈、平原の真ん中を通って、王国軍と帝国軍がぶつかった真下まで網の目のように広がっているわ」
ミラは額に汗を浮かべながら状況を共有する。
「今の状態は、薄い氷の板の上に重い絨毯を敷いているようなもの。一度支えを失えば、地上はひとたまりもなく陥没する……」
さらにミラは壁を伝ってしばらく歩くと、ぴたりと立ち止まる。
「ここの岩盤が薄いわ。ここを貫けば温泉の湯溜まりにたどり着く」
「バルト爺さん、ここを掘削出来そうか?」
「この洞窟と同じで火山灰と軽石の堆積物だ。総じて脆い、わけないじゃろうて」
「しかしこれだけの氷の塊を温泉を流し込むだけで一晩で溶かせるのか?先の方は温泉といえども冷えるのではないか」
マルクが訝しげに問う。
「水でも溶けないことはないが…まぁ、無理だろうな。全て溶かしきる必要はないが、それなりに時間はかかるだろうよ」
「無理か…別の戦い方を考えるしかないか…」
一同が肩を落とす。
「ドワーフの古い格言にある。『山を崩すのは大槌ではなく、一本の楔と、そこへ流れ込む一筋の水だ』とな。取りあえずやってみんことにはわからん」
バルト爺さんが穏やかに笑う。




