第五十八話 敗走の夜
日が落ちて戦場を濡らした冷たい雨が止み霧が深まる。
王国軍を包み込む空気は凍てついたままだった。
本陣へと帰参する列に勝利の凱歌はなく、血と泥にまみれた兵たちの表情は一様に暗い。完全に士気が下がりきり、敗戦の濃厚な空気が陣地を覆っていた。
「クソッ……これほどの被害を出すとは……」
兵士たちの呟きは呪詛のように陣地に漂う。主力の一部を欠き、ボロボロになった軍勢が、静まり返った夜の帳を重苦しく埋め尽くしていた。
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中央の天幕。そこでは、静寂を切り裂くような怒号が飛び交っていた。
「まだか! ベリルたちからの報告は、まだ入らぬのかッ!」
ヴィクトール・グレイスタインの咆哮が響く。
殿を引き受けた姪のエリスの消息は不明。救出に向かったガスト隊、さらには嫡男ヴァルターも未だ帰還していない。
「閣下、落ち着いてください。敵将グスタフ・クローネを討ち取ったのは、我々の確かな戦果です!」
親衛隊長カイト・ヴァナレンが宥めようとするが、ヴィクトールは机を激しく叩きつけた。
「将一人の首など、この損失の前では無に等しい! 王国軍は、一将の首と引き換えにするにはあまりに大きすぎる損害を出したのだぞ!」
そこへ、沈痛な面持ちの王国騎士団長ジークハルト・ベルシュタインが進み出て、深く頭を下げた。
「……グレイスタイン卿。王都騎士団の不手際、心よりお詫び申し上げる。レオン・ボルドーをはじめとする騎士たちが功を焦り、策を無視して陣形を崩した。それが貴殿の軍を孤立させ、多大な犠牲を強いる結果となった。統率を欠いた私の責任だ」
王国騎士団長という地位にありながら、他家の領主に対してここまで深く謝罪するのは異例のことだった。
ヴィクトールは怒りに震える拳を握りしめ、絞り出すような声で「今はその話をしている場合ではない」とだけ返し、再び地図へ視線を落とした。
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議論は平行線を辿る。
「領都へ後退し、籠城に切り替えるべきです!今の疲弊した兵たちでは平原での防衛は不可能です」
冷静に現状を分析するクラリス・ローゼンが声を上げる。だが、それに反対したのはアイリス王女だった。
「いいえ、籠城は最善ではありません。ここで打って出るべきです」
アイリス自身、自分でも理由がよく分かってはいなかった。
ただ、死地へ向かったベリルに対して、説明のつかない「何か」を感じていた。彼が戻った時、我々が背を向けて逃げていてはならない――その直感が彼女を突き動かしていた。
「……アイリス様。しかし、戦力差は明白です」
クラリスの言葉を遮るように、一人の男が膝をつく。
「……すべては、私の浅はかさが招いた結果だ……」
震える声で口を開いたのはジュリアスだった。かつての傲慢さは消え、深い自責の念が顔を覆っている。
「挽回の、機会をくれないか。次は私が先頭に立ち、この身を賭して戦う。王女の言う通り、我々がここで退けば王国の威信は失われる。帝国の進撃を、私の命に代えても食い止めてみせる!」
悲壮な決意と王女の揺るぎない視線。未だ帰らぬ「希望」たちの不在。その闇の中で、王国軍は全滅か奇跡かの極限の選択を迫られていた。
その時だった、天幕の外でどよめきが起こり、入り口の幕が開いた。




