第五十七話 泥濘を駆ける
空を覆う鈍色の雲が、ついに決壊したかのように暴力的なまでの雨を落とし始めた。
視界を遮るほどの白雨が、血生臭い戦場を容赦なく叩きつける。
「さらに速度を上げろ! 足を止めるな!」
ベリル・ガストの鋭い声が響く。
「風蹄の加護…」
ルナが加速の魔法をかける。
降りしきる雨の中、さらに加速したベリルは人知を超えた脚取りで、深く粘りつく泥濘の上をまるで水面を滑るかのような速さで疾走していた。
背後を追うガスト隊の面々も、必死で泥を跳ね上げながらその背中に食らいつく。
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一方、爆炎の渦中では、エリスが限界を迎えつつあった。
「終焉の光柱……!」
「蒼炎の嵐……」
エリスは敵の攻撃を回避しつつ、高速で詠唱を完成させて大魔法を連発する。
彼女の放つ大魔法は雨を蒸発させ、鋭い斬撃のような魔法が次々と帝国兵をなぎ倒す。しかし、その肩は激しく上下し、視界は赤く染まっていた。
「はぁ…はぁ…、もう………魔力が………練れない……」
燃えるような赤い髪を濡らしたセレス・ヴァレンタインが、狂気を孕んだ笑みを浮かべて歩み寄る。
「しぶといねぇ……『銀影』、あんたも中々の化け物っぷりだねぇ。でも、これで終わりだよ!」
セレスが両手をかざすと、猛烈な雨さえも焼き尽くすほどの巨大な火炎の奔流が、エリスを呑み込もうと放たれた。空間を歪めるほどの熱波が、逃げ場のないエリスに迫る。
(……ここまで、ですか……)
エリスが死を覚悟し、瞳を閉じたその刹那。
――――――断ッ!
衝撃波が雨を円形に弾き飛ばした。
熱風が消え、目を開けたエリスの視線の先には、見覚えのある、それでいて今までで最も大きく見える背中があった。
ベリル・ガストが、ただの一振りでセレスの極大魔法を真っ二つに両断していたのだ。
「……えっ? ……魔法って……斬れるの…?」
呆然と呟くエリス。その背後で、ようやく追いついたガスト隊の面々も驚愕に目を見開いて硬直していた。
「おい……ミラ、魔法って斬れるもんなのかよ!?」
「し、知らないわよ」
「……………神業だ…………」
「隊長……あんた一体何者なんだ……」
「隊長って時々、非常識なことするよね」
驚愕する一同を余所に、ベリルは短く応えた。
「遅れてすまない。……行くぞ」
力尽きたエリスを軽々と小脇に担ぎ上げると、すぐさま反転した。
「驚いている暇はない。撤退するぞ!」
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「逃がさないと言っただろう! 追い詰めろ! 殺し尽くせぇッ!」
プライドを傷つけられ、怒りに顔を歪めたセレスが追撃を命じる。しかし、そこから信じられない光景が繰り広げられた。
雨で深い泥沼と化した平原。帝国の馬が嘶き、歩兵が足を取られてもたついているのを尻目に、ベリルとガスト隊は異様なほどの速度で駆け抜けていく。
「ハッハー………!走れ!走れ!走れ!走れ!」
「やったぜ…やってやったぜ……!俺たち帝国軍を出し抜いたぞ………!」
「あの女の間抜け面見たかよ…!」
小隊の面々が興奮しながら疾走する。
「すげえな、このブーツ……! 泥濘をものともしないどころか、いつもより速いくらいだぜ!」
セドリックが泥を蹴立てて驚喜の声を上げる。
「ははは……!確かにな!この格好も存外悪くないな」
ヴァルターが笑いながら駆け抜ける。
後方から降り注ぐ追撃の矢や魔法に対しても、彼らは速度を緩めることはなかった。
「この盾も最高だぜ! 構えなくても背負ってるだけで、矢も魔法も飛んできやがってもへっちゃらだ!」
「魔法は私が盾に防御魔法をかけたのよ。感謝してよね」
ルナがガラムに抱えられながら魔法をかけていく。
背中に背負った大盾が、追いすがろうとする攻撃を次々と弾き飛ばしていく。盾を構える必要さえなくなった彼らは、全力で腕を振り、さらなる加速へと繋げることができた。
「何で追いつけない……化け物か……!? あんな泥の中で……どうして……!」
息を切らし驚愕に凍り付くセレスの視界から、ベリルたちは瞬く間に遠ざかっていく。雨を切り裂き、泥を蹴散らすその姿は、もはや獲物ではなく、荒れ狂う嵐そのものであった。
「あばよ、帝国軍! 追い付けるもんなら追い付いてみな!」
ガスト隊は追撃を完全に突き放し、平原を抜けて険峻なノースウォール霊峰の裾野へと逃げ込んでいった。
白く煙る雨のカーテンの向こう、彼らの姿は山の闇へと吸い込まれるように消えていった。




