第五十六話 死地からの帰還
「撤退だ! 全軍、反転せよ! 本隊との合流を急げ!」
ヴィクトール・グレイスタインの悲痛な叫びとともに、王国軍側に退却を促す高く鋭い角笛が響き渡った。だが、その音色さえも、吹き荒れる爆炎と怒号にかき消されていく。
「逃がさないと言っただろう? 焼き尽くせ!」
帝国の『紅蓮の鴉』セレス・ヴァレンタインが嘲笑と共に手をかざすと、紅蓮の劫火が退却する列の最後尾に直撃した。
「ぎゃあああッ! 熱い、熱い! 助けてくれッ!」
「背中が……背中が焼ける! 水を、誰か水を!」
炎に包まれた兵たちが狂乱状態で走り回り、さらなる混乱を巻き起こす。中央からは、『鉄槌』バルカス・ドラクロワの重装軍勢が、巨大な壁となってじりじりと包囲を狭めていた。
「おい、押すな! 前が詰まってるんだ!」
「どけッ! 死にたくない! 俺を先に通せ!」
脱兎の如く逃げ出そうとする諸侯の兵たちは、もはや統制を失った暴徒と化していた。
本来なら容易に避けられたはずの浅い泥濘に足を取られ、折り重なるように転倒する。その阿鼻叫喚の渦中、雷鳴のような咆哮が響いた。
「臆するなッ! 前を見ろ、貴様らそれでも王国兵かッ!」
辺境伯騎士団長バレン・ガルドスであった。彼は退却する味方の列を逆走し、迫り来る帝国の先鋒へと単騎で突っ込んでいく。
バレンの大剣が一閃し、肉薄していた帝国の歩兵数人をまとめて吹き飛ばした。泥にまみれ、血を浴びながらも、彼は孤軍奮闘して敵の進軍を力ずくで押し留める。
その最前線で、一人の女性が馬を返した。
「団長! ここは私が食い止めます。セレスの魔法を防げるのは、私だけです!」
エリスの叫びに、バレンは目を見開いた。
「馬鹿を言うな! 貴様まで残ってどうする、下がれエリス!」
「今のままでは全滅です! 私の魔力なら、あの炎を霧散させられます。お願い、団長!」
「ならん! 俺が盾になる、お前はヴィクトール様と共に逃げろ!」
バレンは迫り来る敵を斬り伏せながら叫び返すが、エリスの瞳には決死の覚悟が宿っていた。
「団長! あなたがここで倒れたら、誰が皆をまとめるんですか!私の部隊をお願いします。生きて……皆を守って下さい!」
エリスは強引に魔力を展開し、迫り来る火炎を霧散させた。その圧倒的な光の防壁を前に、バレンは唇を噛み締め、届かぬ手を伸ばした。
「……エリスッ!」
しかし、混乱する兵の奔流がバレンを後方へと押し流していく。エリスは孤立無援の殿を引き受け、爆炎の渦中へとその身を投じた。その捨て身の奮戦により、停滞していたグレイスタイン軍の本隊は、ようやく活路を開き始めた。
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「エリスを見捨てるなど、私にはできん……!」
離脱しながらも、背後の炎の中に消えていくエリスを振り返り、ヴィクトールは血を吐くように嘆いた。その傍らで、ベリル・ガストが立ち止まり辺境伯に申し出た。
「私が、連れて帰ります」
その言葉に、ガスト隊の面々が息を呑んだ。ベリルは冷徹なまでに落ち着いた声で、隊員たちに告げる。
「これより副団長の救援に向かう。だが、自ら死地に戻る以上、生きて戻れる保証はどこにもない。……ついてこなくてもいい。これは、私のわがままだ」
一瞬の静寂。それを切り裂いたのはライアンの不敵な笑いだった。
「……何言ってんだよ、隊長。なんだかんだ言って、あんたが最後には必ず俺たちを家に帰してくれるんだろ? 期待してるぜ」
「そうだぜ。隊長なしで帰ったって、飯がまずいだけだ」
セドリックが鼻を鳴らして剣を担げば、ヘルガも力強く頷いた。
「そうよ。隊長なしで帰ったって、それこそいい笑い者だわ」
ミラやガストンも、恐怖を押し殺した笑顔を浮かべて武器を構える。
ヴィクトールは、その傍らに立つ息子の肩を強く掴んだ。
「ヴァルター、お前は残れ。グレイスタインの血を絶やすわけにはいかん」
「……父上。私は、自分の信じた道を行きます。ベリル殿について行き、エリスを救いたいのです」
ヴァルターの迷いのない瞳に、ヴィクトールは誇らしげな微笑を浮かべた。
「……いい顔をするようになったな。行け、生きて戻れ」
戦場へと取って返すベリルたちの背中を見送りながら、最前線で戦い続けていたバレンが、一瞬だけ視線を向けた。
(ベリル……頼んだぞ。お前なら、必ずあの子を連れ戻してくれる。俺はここを一歩も引かん!)
愛弟子への絶対的な信頼を胸に、バレンは再び、迫り来る軍勢の中へと身を投じた。
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程なくして、王国騎士団長ジークハルト・ベルシュタイン率いる本隊が、ようやくグレイスタイン軍との合流を果たした。
「兄さん……ベリル兄さんはどこだ!」
近衛隊の列から飛び出したユーリは、血と泥に塗れた将兵たちの中に兄の姿を探した。
疲れ切った軍勢の中から、うつ向いてへたり込むエリックの姿を見つけた。
「エリック義兄さん!ベリル兄さんは!」
だが、返ってきたのは「殿になった副団長を救うために、ベリルが再び死地へ救援に向かった」という報告だった。
「そんな……また兄さんは……!」
ユーリは拳を白くなるまで握りしめ、兄の身を案じて戦火に包まれる前線を見つめた。
その傍らで、アイリス王女はただそれを見守ることしかできなかった。彼女の瞳にも、言葉にできない不安と祈りが宿っていた。




