第五十四話 罠の結末と、決死の救援
中央部の戦域は、王国軍にとって底無しの絶望へと変貌していた。
「何をしている! 止まるな、進め、進まんかッ!」
レオン・ボルドーが顔を真っ赤にして咆哮し、愛馬の腹を激しく蹴る。しかし、先ほどまで敗走していたはずの帝国兵を追っていたボルドー隊の進軍は、完全に停止していた。
「隊長! 駄目です、馬が沈みます! ここは底無しの湿地です!」
副官の必死の叫びに、レオンは周囲を見渡して愕然とした。
「馬鹿な……! 偵察では乾いた草地だったはずだぞ! 数日前までここは確実に……」
「罠だ、ということだよ。功を焦った愚か者よ。その沼地が、貴様らの墓標だ」
静謐ながらも戦場全体に染み渡る冷徹な声。帝国軍が誇る軍才、『蒼氷の伯爵』ユースタス・ベルンが、悠然と馬を返した。
「射て!一矢たりとも逃すな!」
ユースタスの短い合図とともに、空を埋め尽くすほどの矢が放たれた。
「盾を上げろ! 密集陣形だ!」
レオンが叫ぶが、泥に足を取られた兵たちは重なり合い、逃げ場を失っていた。無情にも降り注ぐ矢が、王国軍中央の兵たちを次々と泥濘の中に縫い付けていく。
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その混乱を、後方で歯噛みしながら見つめていたのはクラリス・ローゼンだった。
「クラリス様! 前方のボルドー隊が完全に停止、壊滅が始まっています! このままでは後続の我らも泥濘に飲み込まれます!」
副長が悲痛な声を上げる。クラリスは白銀の剣を強く握りしめ、戦場を俯瞰した。
「……やはり罠だったのですね。ゾルタンめ、この地帯を意図的に隠し、ボルドーを誘導したのですね」
「助けに向かいますか!? 今ならまだ一部は救えるかと!」
「いいえ、今突っ込めば我らまで一網打尽にされます。……全軍、ボルドー隊を切り離し、即座に反転、後退を開始しなさい! 陣形を立て直す場所を確保します。急ぎなさい!」
クラリスは苦渋の決断を下し、矢面に立つ。
「まだ動ける諸侯の隊にも伝えなさい! 角笛を鳴らせ! 総員退却です!」
クラリスの命により、王国軍側に高く鋭い角笛の音が響き渡る。
その音を聞き、泥濘に捕まる直前だった諸侯の部隊が辛うじて足を止め、隊列を乱しながらも後退を始めた。
彼女は自ら殿に立ち、混乱する自軍を叱咤しながら、崩壊の連鎖を食い止めるべく奔走した。
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一方、帝国軍本営。 伝令から中央部の戦果を聞いたゾルタン・ディートリヒは、眼鏡の奥の瞳を怪しく光らせた。
「……かかったな。王国軍の陣形はこれで完全に分断された」
彼は冷酷な笑みを浮かべ、砂盤上の「右翼」の駒を横に払った。
「左翼へ合図を送れ。包囲の時だ。角笛を鳴らせ」
戦場に、低く重苦しい帝国式の角笛が三度響き渡った。それは孤立したグレイスタイン軍を四方から完全に包囲し、殲滅するための「死の宣告」であった。
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王国軍本隊の天幕。
「左翼ローゼン隊より伝令!ボルドー隊が突出、帝国軍の罠に掛かり壊滅!他諸侯の部隊も多数潰走とのこと!」
もはや一刻の猶予もないことを悟った王国騎士団長ジークハルト・ベルシュタインは、身に纏っている重厚な白銀の甲冑を鳴らし、自らの部隊へと向かった。
「オスカー、私の軍勢を率いて右翼の救援に向かう。ジュリアス殿下とアイリス王女を連れて本陣まで後退しろ。頼んだぞ」
「御意。……ですが騎士団長、これでは本陣の守りが薄くなります!」
近衛騎士団副団長オスカー・グリンガルドが懸念を口にするが、ジークハルトの決意は揺るがない。
「右翼のグレイスタイン軍を失えば、この戦に勝ち目はない。我が命を賭してでも、彼らを救い出す! 左翼のクラリスも、事態を察すれば必ずや戦列を立て直し、合流してくるはずだ。それまで我らが楔となり、帝国軍の包囲を食い止める!」
だが、そこへ駆け寄る影があった。アイリス王女である。
「騎士団長、私も同行いたします! 私も魔導騎士の端くれです。辺境の皆を見捨てるわけにはいきません!」
「王女殿下、なりません! 戦場はもはや死地、一国の王女が進む場所ではない!」
オスカーが必死に制止するが、アイリスの瞳には決然とした意志が宿っていた。
「私が行くことで、兵たちの士気も上がります。オスカー、お願いです!」
アイリスの熱意に押され、オスカーは数名の近衛騎士を厳選して護衛に付けることを条件に、戦場後方までの同行を許した。
その護衛の中には、引き締まった表情で剣の柄を握るユーリの姿もあった。
「ユーリ、お前も覚悟はできているな?」
オスカーの問いに、ユーリは短く、だが力強く答えた。
「……はい。この命に代えても、殿下をお守りし、王国を救います」
王国騎士団長ジークハルト・ベルシュタイン率いる救援部隊が、砂塵を巻き上げて地響きと共に動き出した。




