第五十三話 崩れる天秤
アステリア王国軍、中央本陣の天幕。
勝報を知らせるはずの伝令の叫びが、王国騎士団長ジークハルト・ベルシュタインにとっては不吉な弔鐘のように響いた。
「伝令! 右翼グレイスタイン軍、帝国軍左翼壊滅間近! 中央ボルドー隊、優勢につき中央から左翼方向に向けて進軍を開始しました!」
「――馬鹿なッ! 何をやっている!」
ジークハルトの怒声が、陣幕を震わせた。彼は机上の砂盤を拳で激しく叩きつける。
「ボルドーに追撃の許可など出していない! 直ちに足を止めさせろ!」
だが、その傍らで戦況を見守っていた第一王子ジュリアス・アステリアは、意外にも楽観的な笑みを浮かべていた。
「案ずるな、ジークハルト。見たところガレリア帝国軍も、かつての威光ほどではないようではないか。若い騎士が辺境伯の手柄に当てられて昂ぶっているのだ。案外、あのレオン・ボルドーが本当に大将首を提げて戻ってくるかもしれんぞ?私たちも突撃するか?」
「殿下、そんな甘い相手ではないと言っているのです!」
ジークハルトは、さらに語気を強めて詰め寄った。騎士団長として数多の戦場を潜り抜けてきた彼の直感が、背筋に冷たいものを走らせる。
「中央部が深追いすれば、突出した右翼との間に致命的な空白が生じる。このままでは我が軍の陣形は分断され、優勢であったはずの右翼は完全に孤立し、逆に帝国軍に飲み込まれることになる!」
「しかし右翼も我が軍が圧倒しているのだろう。若い騎士に手柄を立てさせてやるのも先達の務めだぞ、ジークハルト」
---
その混乱は、王国軍左翼を守備する『白銀の戦乙女』クラリス・ローゼンのもとにも、最悪の形で波及していた。
「……一体、何が起こっているのです?」
クラリスは、自陣の前方を埋め尽くす凄まじい数の味方の背中を見て、愕然と立ち尽くした。
本来、彼女の部隊が担当する左翼には、帝国軍右翼を牽制しつつ、中央の突出を抑えるための精密な迎撃陣形が敷かれていた。
しかし今、そこには泥濘地帯を避けようと無秩序に横流れしてきたレオン・ボルドー率いる中央諸侯軍の軍勢が、雪崩のように押し寄せていた。
「中央のボルドー隊、右翼方向へ向かうはずが、泥濘に阻まれ我が左翼へ逆流! 陣形が押し潰されます!」
副官の悲痛な報告が飛ぶ。
手柄を焦り、罠に嵌まり、混乱に陥った友軍ほど厄介なものはない。彼らの無計画な退却は、鉄の結束を誇ったクラリスの精鋭たちの隙間に楔を打ち込み、その機動力を完全に奪い去っていた。
「前方の部隊に停止を命じなさい! 中央の諸侯に伝えろ、貴方たちが踏み荒らしているのは敵陣ではなく、味方の陣営だと!」
クラリスの凛とした叫びも、武勲に目を眩ませ、今は恐怖に支配された兵たちの怒号にかき消されていく。
そして、クラリスは見た。
味方の混迷と霧の向こう側で、これまで沈黙を保っていた帝国軍右翼が、動き出すのを。
「……来ます。盾を掲げなさい! 重装歩兵、前へ!」
だが、その命令は実行されなかった。味方の軍勢が邪魔で、盾を並べる隙間すら残されていなかったのだ。
帝国軍の陣営から、低く重厚な角笛の音が響き渡る。それは、獲物が罠にかかったことを告げる屠殺者の合図だった。
泥濘に足を取られた中央軍。
その混乱に巻き込まれ、身動きの取れなくなった左翼クラリス隊。
王国軍の天秤は、敵の剛力ではなく、自らの身勝手な重みによって音を立てて崩れようとしていた。
クラリスは、迫り来る帝国の黒い波を見据え、白銀の剣を強く握りしめた。その瞳には、絶望ではなく、最悪の盤面を覆そうとする職人のような鋭い光が宿っていた。




