第五十二話 反転する戦線
戦場に、一際高い金属音が響き渡った。
辺境伯騎士団長バレン・ガルドスが振るう大剣は、数多の帝国兵を薙ぎ払い、血飛沫の中に活路を穿つ。その一騎当千の勢いに呼応し、ヴィクトール・グレイスタイン率いる辺境伯本隊が怒涛の突撃を敢行した。
「どけ!!道を開けろ! グスタフ・クローネはどこだ!」
バレンの咆哮とともに、帝国軍の陣形が内側から爆ぜる。ついに彼は、鉄の盾に守られた指揮所に到達した。
「よくぞ来た、辺境の狂犬め」
重厚な甲冑を鳴らし、グスタフ・クローネが立ち塞がる。
老練なる巨壁と、辺境最強の矛。両雄の刃が激突し、周囲の兵がその衝撃波で吹き飛ばされた。
敵総大将までを直接叩かんとする程に辺境伯軍の勢いは凄まじく、帝国軍左翼は壊滅の淵に立たされていた。
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その頃、帝国軍本営の天幕。 軍師ゾルタン・ディートリヒは、盤上の駒を冷静な目で見つめていた。
「伝令!左翼クローネ卿苦戦!中央、右翼は優勢です!」
「……左翼がだいぶ分が悪い。さすがはグレイスタイン、と言ったところか」
ゾルタンは眼鏡を押し上げ、呟いた。
「対して、中央から右翼が優勢だと。こちらは敵を引き付ける指示しかしていないが………あれだけの将を揃えて来て、あまりにも戦闘の熱量が足りない…」
ゾルタンの脳裏に、一つの確信が浮かび上がる。
王国軍は、精強なグレイスタイン軍を左翼の突破に集中させ、中央から右翼の兵力は敢えて薄くしている。敵の狙いは、左翼からの完全突破による包囲。
「閣下、このままでは危ない…敵の策が完成する前にこちらの罠を仕掛けます!左翼にはまだ伏兵も隠している。もう少し持ちこたえるでしょう。今のうちに中央から右翼の全軍を後退させてください」
報告を受けた総大将バルカス・ドラクロワは、わずかに眉を寄せた。
左翼を見捨てることは、古参のグスタフを見殺しにしかねない苦渋の決断だ。だが、バルカスは戦鎚を握り締め、断を下した。
「……全軍に伝令。中央から右翼、じりじりと後退しつつ陣を下げろ。敵を誘い込め」
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一方、中央部。 帝国軍が後退を始めたのを見て、王国軍のレオン・ボルドーが歓喜の声を上げた。
「見たか! 帝国軍が逃げ腰だぞ! ここで叩けば、今日の武勲は我らボルドー隊が独占できる!」
「いけません!隊長、作戦通り我々も右翼へまわりましょう」
興奮したレオンの突出を副官が必死の形相で諌める。
「愚か者!この好機を逃して何とする。このままでは辺境の田舎騎士に手柄を総取りされるぞ!」
グレイスタイン軍の快進撃に焦りを感じていたレオンは、好機と見て独断で攻勢を強めた。
整然と後退する帝国軍を追い、王国軍中央部が前進を続ける。他の若い諸侯の軍も我先にと追随して行った。
だが、それこそがゾルタンが地図上に描いた死の境界線であった。
「愚かな。その先には、私が数日かけて用意した舞台があるというのに」
レオンのボルドー隊が踏み込んだ先――そこは、地表の乾いた草に覆われながらも少しずつ深くなる泥濘地帯。 重装に身を固めた王国軍の馬たちが、次々とその足元を深く沈み込ませ始めた。
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「クラリス様、中央の諸侯の軍勢が停滞しています! このままでは全体の陣形が崩れるおそれが……」
副官の報告に、クラリス・ローゼンは眉をひそめた。彼女が指揮を執る王国軍左翼の正面には、いまだ動かぬ帝国軍右翼の陣容がある。だが、そこから伝わってくる熱量は、あまりにも希薄だった。
「……様子がおかしいですね。帝国軍の抵抗が弱すぎます。グレイスタイン卿が猛攻を仕掛けているとはいえ、帝国がここまで脆いとは考えられません」
クラリスは、手元の遠眼鏡を中央部へと向けた。
そこでは、武勲を焦るレオン・ボルドー率いる中央諸侯軍が、歓喜の咆哮を上げながら後退する帝国軍を追撃している。一見すれば王国軍の勝勢。しかし、クラリスの目には、それが獲物を奥底へ引き摺り込もうとする底なし沼の蠢きに見えた。
「帝国軍は『負けて』いるのではなく、『退いて』いる……。いえ、あれは誘い込みです。このままでは中央が孤立する!」
クラリスが即座に撤退あるいは陣形立て直しの合図を送ろうとしたその時、大地が不自然なほど静まり返った。
追撃を続けていた中央軍の進軍速度が、急激に落ちる。
勇猛な馬の嘶きが、次第に悲鳴へと変わっていった。
「何だ……!? 足が、馬の足が抜けんぞ!」
「泥だ! 草の下がすべて泥濘になっている!」
レオン・ボルドーの焦燥した叫びが、風に乗ってクラリスの元まで届く。
ゾルタンが仕掛けた罠――乾いた地表の下に隠された広大な泥濘地帯。重装騎兵を主力とする王国諸侯軍にとって、そこは機動力を奪われるのみならず、体力を削り取る死の揺り籠であった。
クラリスは即座に愛馬の首を巡らせ、全軍に下知を飛ばした。
「全軍、停止! 中央への深追いは禁じます! 中央本隊並びに、右翼のグレイスタイン軍に伝令を飛ばしなさい! これはゾルタン・ディートリヒの術中――我々は今、巨大な罠の口の中にいます!」
だが、その叫びを嘲笑うかのように、帝国軍の陣営から一斉に咆哮が上がった。
逃げていたはずの帝国兵たちが、完璧な統率のもとで反転する。
泥に足を取られ、身動きの取れなくなった猛将たちの前に、死神の鎌が振り下ろされようとしていた。




