第四十九話 黒鉄の帷
カノープス平原西側にある要衝セドナ。その付近に設営された帝国軍の巨大な天幕内は、戦前の静寂と冷徹な殺気に満ちていた。
中央の床に広げられた詳細な砂盤を囲むのは、帝国の威信を象徴する将星たちである。
最奥に座すのは、帝国軍総大将『鉄槌』バルカス・ドラクロワ。その傍らには巨大な戦鎚が立てかけられ、座っているだけで周囲の空気を圧壊させるような威圧感を放っていた。
「報告を」
地を這うようなバルカスの低音に、斥候兵が膝をつく。
「はっ! 霧の晴れ間に確認。アステリア王国軍、カノープス平原に入りました!」
バルカスが重い腰を上げた。
「敵将は誰が参戦している」
「総大将は王国騎士団長ジークハルト・ベルシュタイン。さらに第一王子ジュリアス、第三王女アイリスの旗を確認! 加えて『白銀の戦乙女』クラリス・ローゼン、レオン・ボルドー……そして、ヴィクトール・グレイスタイン率いる辺境伯軍も全容を現しました」
その名が出た瞬間、陣幕内の温度が一段下がった。 腕を組み、柱に背を預けていた『紅蓮の鴉』セレス・バレンタインが、不敵な笑みを浮かべて赤い髪をかき上げる。
「グレイスタインの暗殺は失敗に終わったか。しぶといジジイだねえ」
「……もう少し、戦力が集まるまで待ちたかったがな。王族まで担ぎ出してきたか」
バルカスは、暗殺という搦手が通じなかったことを惜しむ様子もなく、淡々と戦鎚を手に取った。
「王国も本気のようだな。あの平原にこれだけの駒を揃えてくるとは。……少々、厄介だ」
「厄介、ですか。将軍ともあろうお方が、いささか慎重に過ぎるのでは?」
皮肉めいた声を上げたのは、新たに合流した有力諸侯の一人、『蒼氷の伯爵』ユースタス・ベルンである。美しく整えられた青い外套を纏い、細身のレイピアを腰に下げた彼は、冷ややかな視線で砂盤を眺める。
「辺境伯軍など、我が魔導騎兵隊の敵ではありませんよ」
「……慢心するな、ベルン卿」
それを遮ったのは、重厚な甲冑に身を包んだ巨漢、『不動の巨壁』グスタフ・クローネ公爵だった。帝国諸侯の中でも最古参の一人であり、野戦においては右に出る者はいない。
「グレイスタインの騎士たちは、王都の騎士共とは年季が違う。甘く見るでない」
「ふん、クローネ卿は臆病風に吹かれたようだ。この私が来たのです。あんな田舎騎士など相手ではない」
「奴らには『不落の盾』『銀影』といった化け物がおるのだぞ。思い上がるでないわ、小童!」
「………問題ありません」
口論が過熱する前に、地図を冷静な目で見下ろしていた男が口を開いた。帝国軍参謀、ゾルタン・ディートリヒである。 ゾルタンは眼鏡の奥の瞳を細め、駒の一つを「底なしの泥濘」が潜む場所へと弾いた。
「厄介なのはグレイスタインの騎士団のみ。それ以外の王国騎士団は、カノープス平原という地の利を何一つ理解しきれていない。彼らが『道』だと思っている場所の半分は、重装騎兵を飲み込む墓場です。彼らが『勝利』だと思って突き進む先は、私が設計した処刑台に過ぎません」
バルカスはゾルタンの言葉を聞き、不気味な笑みを浮かべて立ち上がった。
「なるほどな。グレイスタイン以外の軍は、我らが退けば勝機と見て泥沼に飛び込むというわけだ。……よし、出陣するぞ。セドナを発ち、カノープス平原へ向かう!」
バルカスが戦鎚を肩に担ぎ、天幕の出口へと歩き出す。
「伝令! 前衛部隊に告げよ。王国騎士団の猛攻を受け流し、引き付けたあとは、予定の場所まで整然と後退しろ。魚を網の奥へ誘い込むのだ。まずはあの誇り高い騎士連中に、平原の泥の味を教えてやるとしよう」
帝国軍の巨大な歯車が、重々しい音を立てて回り始めた。 セドナの地からカノープス平原へ。冷徹な死の行軍が開始された。




