第四十七話 動乱の序曲
辺境伯邸の執務室。重厚な扉が閉じられ、室内には領地の命運を握る重要人物たちが顔を揃えていた。
「……間者たちの目的は、やはり閣下の暗殺でした」
親衛隊長カイト・ヴァナレンの報告に、ヴィクトール・グレイスタイン辺境伯は無言で頷いた。その傍らには、漆黒の外套を纏ったベリル、および辺境伯の左右を固めるように、騎士団長バレン・ガルドスと副団長エリス・ラングレンが同席している。
「暗殺によって我が軍の中枢を混乱させ、その隙に国境付近の街セドナへ集結させた大軍で一気に蹂躙する手筈だったようです」
カイトが地図の上に置いた駒の数は、通常の国境警備を遥かに超える規模だった。ガレリア側の偵察に当たっていた第五守備隊長のガルガ・ドム、および第六守備隊長のシグリッド・ヴァルマから入った緊急報告によれば、帝国軍は主力級をセドナへと次々と投入しているという。
「暗殺は失敗しましたが、帝国はすでに引き返せないほどの戦力をセドナへ注ぎ込んでいます。策が潰えた以上、彼らは圧倒的な数による力攻めに切り替えてくるはずでしょう」
騎士団長バレンが、地図を見据えながら重々しく口を開いた。
「敵の兵力がこれ以上膨れ上がるのを待つのは危険だ。このままエストレアに籠城したところで、包囲されれば領都は火の海にされる。敵の戦力が揃い切る前にこちらから打って出て、開戦し戦局の主導権を握るべきだろう」
「……ならば、迷うことはない」
ヴィクトール辺境伯の決断に、副団長エリスが鋭い視線で応える。
「王都へはガンダル砦の一件から既に派兵を要請してあります。王国騎士団が明後日には到着するでしょう。彼らが合流し次第、一気にカノープス平原で敵の鼻面を叩きます」
「この度は私も出よう。ベリル、貴公の隊も準備にかかれ。出陣だ」
「……はっ。承知いたしました」
ベリルは一礼し、静かに部屋を後にした。
---
駐屯地に戻ったベリルは、自身の天幕に入るとテーブルに地図を広げた。 「全員、手を止めろ。班長たちは近くへ寄れ」
ベリルの指示に、ガスト隊の主要隊員たちががテーブルを囲む。
「親衛隊としての役割は変わらないが、今回の戦場は勝手が違う。事前に地形と特性を叩き込んで、装備を整えておくぞ」
ベリルが指し示したのは、巨大な山脈に挟まれた東西に長い平原だった。
「位置関係を確認する。カノープス平原は広大だが北側には膨大な雪と氷河を蓄えたノースウォール霊峰、南側も深い山岳地帯に挟まれている。つまり、帝国が西のセドナから、東のエストレアへ大軍を送り込めるルートは、この平原しかない。逃げ場のない一本道だ」
ベリルは平原の中央付近を指先で叩いた。
「ライアン、ミラ、カノープス平原の状況を知る限り説明してくれないか」
「だだっ広い野原ですが、草の丈が膝上から腰近くまであります。それに一日中霧が立って遠目じゃ潜伏してる奴がさっぱり見えねぇ」とライアンが言えば、ミラも続く。「全体的に湿地で所々に泥濘や沼地があって足をとられるわ。」
「索敵は遠目が効くミラとルルよりも鼻と耳が効くライアンたち獣人が頼みの綱だな」
ベリルは腕を組み、地図を見つめた。
「……ヨハン、今の板金鎧であの草むらを走れるか?」
「正直、厳しいな。一歩ごとに足首まで埋まっちまう。帝国の騎兵が来たら、逃げることもできずに串刺しだ」
「じゃあ、脱ぐか」
ベリルの言葉にヴァルターが声を荒らげた。
「隊長、正気ですか! 騎士の命である金属鎧を脱ぐなんて、死ねと言ってるようなもんだ!」
「死なないために言ってる。全員、革の軽装鎧を用意しろ。騎士の格好じゃなくなるがな」
「だが、盾はどうする」
ガストンが腕を組んで言う。
「泥濘で大盾を持って動くのは相当に骨が折れるぜ」
「だったら、背負い籠みたいに背負って行こう。盾の裏にベルトを付けよう」
ベリルの提案に、天幕内がどよめいた。
「背負う……? 盾を? 亀みたいで格好わりぃな」
セドリックが苦笑する。
「でもよ、背を向けりゃすぐに防御姿勢ができるぜ。亀みたいによ」
ヨハンが笑いながらぽんと手を打つと、他の班長たちからも「おお……」「確かに」と声が漏れた。
「ほぉー、面白いな。盾を担いで走っても風を受けないように先を丸めた方がいいかもな」
職人気質のグレンが目を輝かせながら身を乗り出す。
「泥濘はどうするのかしら? 転んで泥まみれになるのは嫌ねぇ」とルナがため息をつく。
「紐を二重に回して、足首をガチガチにしようぜ。その上から布を巻いて、泥が入らねぇように蓋をするんだ」
「それはいい考えだ。だが、もっと工夫できないか」
ベリルが顎に手を当てて考え込む。
セドリックがニヤリと笑ってライアンの肩を叩いた。
「お前はもう裸足で行けよ。爪と肉球があるから滑らねえだろ? 毛皮の脂で濡れねえし、おあつらえ向きだ」
「んなもんねえよ!」
ライアンが即座に吠える。
そのやり取りに、ベリルはふと目を細めた。
「……爪と肉球と脂、か」
「隊長?」
「グレン、革靴の底に鉄の鋲を打つのはどうだ。爪の代わりだ。出来るか?」
「それと、全体に蜜蝋と油脂を塗り込む。獣の脂で水を弾くんだ」
「なるほどな! 面白そうだ。鋲を鋭くすれば武器にもなりそうだ。縫い目には松脂を塗るといいぞ。見た目は最悪だが、一滴の水も通さねぇブーツに仕上がるぜ。……だが、相当獣臭くなるぞ?」
「うぇ…」女性陣がしかめっ面になる。
「臭いより命だ。マルク、霧の中での弓班は?」
「……長弓はかさばるので短弓に変えましょう」
マルクが首を振った。
「ただし、弦を獣の腱で何重にも撚り、弓身を強化材で裏打ちして張力を極限まで高めます。威力と射程は落としません」
「引くのが相当重くなるぞ。霧の中から音だけを頼りに一撃で仕留めるつもりか」
「ええ。姿を見せず、位置も悟らせず、ただ確実に敵の急所を貫きます」
「姿を見せずか………隊長、革鎧と外套を草原の枯れ草色に塗ってみるのも面白いかも知れんぞ」
グレンの職人魂に火がついた。
翌日、ガスト隊の駐屯地には異様な活気と、鼻を突く強烈な「獣臭」が立ち込めていた。 隊員たちが煮出した革を叩き、松脂を溶かし、金属鎧を無造作に積み上げていく。
---
日が傾きだした頃。
「……おい見ろよ、ガスト隊の連中。騎士のなりを捨てて、背中に甲羅を背負ってやがる」
「しかもあの臭い……。親衛隊も、ついに野盗に身を落としたか」
通りがかった他隊の騎士たちが嘲笑を浴びせる。しかし、ベリルはそれを無視し、隊員たちの装備を自ら確認して回った。
「笑わせておけ。死ぬよりはマシだ」
そこには不格好で、異臭を放ち、誇りよりも実利を選んだ奇妙な集団あった。
「またおかしな二つ名が付きそうだな」
アルノーがボソリと呟いた。
エストレアの城壁の向こう側、平原の先に沈む夕日が、西のセドナの方角を不気味な赤色に染めていた。




