第四十五話 漆黒の外套と、慣れない葡萄酒
辺境伯邸の親衛隊専用棟。 昨日までの埃っぽい詰所とは異なり、磨き上げられた石造りの床と、静謐な空気がガスト隊の面々を包んでいた。
彼らの肩には、親衛隊の証である銀刺繍の黒いショートケープが誇らしげに――あるいは、不釣り合いに揺れている。
デニスが自らの肩にかかった「ガスト隊」の刺繍を、噛み締めるように指でなぞっていた。
「……ガスト隊、か。悪くない」
「いい? あんたたち。今日からは辺境伯閣下の直属なのよ。その辺の守備隊と同じ感覚で、下品な笑い方したり鼻をほじったりしたら、隊長の顔に泥を塗ることになるんだから。少しは行儀良くしなさいよ!」
ミラが腰に手を当て、鋭い声で隊員たちを睨みつける。彼女自身、いつもより背筋を不自然なほどピンと伸ばし、言葉遣いもどこか硬い。
「わかってるって、ミラ。これからは親衛隊らしく『紳士』にならなきゃな。これからは安いエールじゃなくて、最高級の葡萄酒を気取って飲むぜ」
セドリックが、グラスを回しながら、上流階級の真似事をするような手つきで軽口を叩いた。すると、隣にいたヘルガが、わざとらしく裏返った声で応じる。
「あらぁ、セドリック様。葡萄酒だけでは足りなくてよ。見てくださる? オ、わたくし、明日から化粧品を買い揃えて、お肌の手入れも始めるつもりですの。親衛隊ともなれば、華やかな夜会に駆り出されることだってありますわよねぇ?」
普段の粗野な口調を無理やり「お嬢様風」に歪め、猫耳をぴくつかせながら茶化すヘルガ。その姿は、上品というよりは、新手の魔獣のような不気味さを醸し出している。
「……そうですな。我らガスト隊、これからは言動ひとつにも、えー、高潔な、精神を宿さねばなりませぬ」
「全くだ。……左様。我らが隊長に、恥をかかせるわけには参りませぬゆえ」
ガストンとライアンまでもが、どこで覚えたのかも怪しいおかしな丁寧語で頷き合っている。語尾が震えており、聞いている方がむず痒くなるような話しぶりだ。
その喧騒から少し離れた隅で、アルノーが鼻で笑いながら、いつものように短剣の手入れを始める。
「馬鹿な奴らだ。外套の色が変わったところで、中身が急に上等になるわけじゃねえのにな」
毒づきながらも、その口角は心なしか上がっている。
「……あいつら本気か? 逆に知能が下がっているように見えるんだが」
「ヴァルター、放っておきなさい。……でも、ヘルガの頭の中は、一度解析してみる価値があるかもしれないわ」
ルルが冷めた目で溜息をつく。ヴァルターもまた、重すぎる黒い外套の感触に、名誉よりも言いようのない不安を感じていた。
そこへ、魔法媒体の調整を終えたルナが、顔を赤らめて戻ってきた。
「ちょっと、二人とも、そんなことより見た!? 隊長のあの姿……! 黒い外套を羽織った瞬間、なんだか凛々しくて、ものすごく格好良かったわぁ……」
うっとりと頬に手を当てるルナの言葉に、マルクが苦笑しながら割って入る。
「おいおい、盛り上がるのは勝手だが、お前たちは今までどおりでいい。変に背伸びして失敗されるのが一番困るんだ。……だが、いいか。問題だけは起こすなよ。今の俺たちは、一歩外に出れば注目の的なんだからな」
マルクの言葉に、隊員たちが一瞬だけ神妙な顔を見せる。だが、すぐにまた「葡萄酒だ」「化粧品だ」と騒ぎ始めた。
「……それで、肝心の隊長はどこへ行ったんだ?」
セドリックの問いに、マルクが奥の執務室を指差した。
「……あの中だ。さっきから一歩も出てこない」
執務室の中では、ベリルが頭を抱えて机に突っ伏していた。 目の前には、親衛隊としての支給金、ガスト隊の維持費、そして「親衛隊特別手当」と書かれた書類。金額は、これまでの小隊長時代とは比較にならないほど跳ね上がっている。
「……ガスト隊、か。名前まで売られちゃ、もう逃げ場がないな」
ベリルは、机に置かれた漆黒の外套を忌々しそうに見つめた。
家族への仕送りは増えるだろう。リナの持参金も、これで十分すぎるほどだ。だが、その代償は「平穏」という名の、何物にも代えがたい財産だった。
「隊長、親衛隊長がお呼びです」
マルクが申し訳なさそうにドアを叩く。ベリルは深く、重い溜息をつくと、観念したように黒い外套を羽織った。
「……行くか。行儀の悪い『親衛隊』の初仕事へ」
扉を開けると、そこには相変わらずの喧騒が広がっていた。ベリルはそれを見て、少しだけ口角を上げたが、すぐに元の「冴えない男」の表情に戻り、騒がしい部下たちの先頭に立った。




