第四十四話 旧師、あるいは怪物の檻
領都エストレア、辺境伯邸。
磨き抜かれた回廊を歩くベリルの足音は、驚くほど静かだった。隣を行くヴァルターの興奮した足音と、マルクの緊張で硬くなった足音だけが空空しく響く。
「……小隊長、本当に俺まで入っていいんですか? 部屋の外には第一守備隊の連中が並んでましたよ」
マルクが周囲を警戒するように、極限まで声を潜める。
「ああ。嫌な予感しかしないが、俺一人で逃げ出すわけにもいかないからな」
ベリルは溜息混じりに応え、使い古された剣の柄を無意識に撫でた。
円卓の間の重厚な黒檀の扉が開くと、部屋の空気は物理的な重さを伴って彼らを迎えた。
そこにはヴィクトール・グレイスタイン辺境伯を筆頭に、騎士団長バレン・ガルドス、副団長エリス・ラングレン、親衛隊長カイト・ヴァナレン。そして、シグリッド・ヴァルマやオスカー・ライヘンバッハといった、領内最強を自負する守備隊長たちが猛禽のような眼光を並べていた。
「……あれが、帝国軍三千を屠ったという『不戦の外套』か?」
「ただの冴えない男ではないか。何かの間違いだろう。報告書に尾ひれがついているに決まっている」
値踏みするような毒のある囁きが、鋭い剣鳴のようにベリルの耳を刺す。
沈黙を破ったのは、上座の傍らに岩塊のごとく鎮座していた巨躯――騎士団長バレン・ガルドスだった。
「……遅かったな、ベリル。相変わらず貴様は、目立つ場所にはコソコソと現れる」
バレンの地鳴りのような太い声が室内に響き、守備隊長たちの嘲笑が凍りついた。騎士団長が、階級の遠く離れた一小隊長を親しげに名で呼んだからだ。 ベリルは観念したように短く溜息をつくと、一歩前へ出て深く頭を下げた。
「……ご無沙汰しております。バレン様に呼ばれる場所は、いつも碌な所ではないので。できればこのまま、扉を閉めて帰りたかったのですが」
「口の減らぬ奴だ。……ふん、見たところ元気そうだな」
バレンがゆっくりと立ち上がる。それだけで室内の圧力が一段跳ね上がった。
「『不戦の外套』などと情けない名で呼ばれているようだが、腕が鈍っているのではないか? 貴様のその腐った根性、また俺が叩き直してやってもいいんだぞ」
「ははは、勘弁してください。バレン様のしごきをまた受けるなんて、命がいくつあっても足りないですよ」
「相変わらずの弱腰だな。……だが、これからはそうも言ってられんぞ」
談笑する二人を前に、エリスが指先で前髪を払った。『不落の盾』バレン・ガルドスという男は、苛烈な訓練と勇猛果敢に前線に飛び込んでいくことで知られる歩く災厄そのものだ。その男を前にして、この小隊長は一歩も引いていない。
「……団長。失礼ながら、彼とはどのようなご関係なのですか?」
エリスの問いに、バレンは獰猛な犬歯を覗かせた。
「コイツか? コイツは騎士学校のぬるま湯で育った貴様らとは違う。十五歳の小僧のころから俺の後ろを最後までついてきた『従騎士』あがりだ」
エリスの氷のような目が一瞬大きく開いた
室内の空気が一変した。
「じゅ、従騎士……団長の?」
マルクが裏返った声を漏らし、あからさまに戦慄した。長年ベリルの副官を務め、その実力を誰よりも知っていたつもりだったが、その修行の場が「地獄の底」であったことは初めて知ったのだ。
一方で、ヴァルターは己の師の正体を知り、身震いするような高揚感に包まれていた。目の前の冴えない男が、騎士団の生ける伝説と対等に渡り合ってきた事実が、彼の中の確信を熱くさせる。
隊長たちの視線が、ベリルの全身を舐めるように走り抜ける。 かつてバレンの背中を預かり、その破壊的な武威の余波に晒されながらも、五体満足で立ち続けていた者がいたという事実。
侮蔑は瞬時に消え失せ、代わりに得体の知れない「怪物」を直視してしまったような、生理的な忌避感と畏怖が場を支配した。
「ベリル。貴様はこれまで十分に身を隠した。だが、もはや隠しきれんぞ」
バレンの太い指が、ベリルの肩を、骨が軋むほどの力で掴んだ。
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バレンの重圧を受け流すベリルの背後で、ヴィクトールがゆっくりと立ち上がった。その手には、銀の刺繍が施された漆黒の外套が握られている。それは辺境伯の剣として、あるいは盾として領地を守護する「親衛隊」の証だった。
「ベリル・ガスト。貴公がこれまで何を思い、何のために戦ってきたのか、私は問わぬ。だが、ガンダル砦で起きたことは『奇跡』で片付けるにはあまりに大きすぎた」
ヴィクトールは一歩踏み出し、ベリルの目の前でその外套を広げた。
「帝国は貴公という存在に怯え、同時にその正体を血眼で探している。今の貴公は、もはや一小隊の中に埋もれていられるほど小さくはない。貴公を守り、かつその力を最大限に振るわせる場所は、私のもとをおいて他にない」
「貴公を親衛隊騎士に任じ、第五小隊を貴公直属の遊撃隊、ガスト隊とする」
沈黙が部屋を支配する。守備隊長たちの羨望と、それ以上に深い畏怖。親衛隊への抜擢は、騎士としての最高の名誉であると同時に、戦いの最前線、あるいは政治の泥沼へと引きずり出されることを意味していた。
ベリルはその黒い生地を見つめ、家族の顔を思い浮かべた。 末妹リナの持参金、カイルの学費。自分の平穏さえ差し出せば、彼らの未来はより確かなものになる。天秤は、最初から傾いていた。
「……御意。この外套、謹んで拝命いたします」
ベリルは長く、重い溜息をついた。 それは、十五年間守り抜いてきた「臆病な小隊長」という安息の仮面が、師の手によって、そして己が積み上げた結果によって、音を立てて砕け散ったことへの、静かな惜別だった。
「お前も、そろそろ表舞台に出て来る頃だ」
バレンの言葉が、逃れられぬ宣告となってベリルの胸に深く突き刺さった。




