第三十八話 震動する盤面
アステリア王国国境まで数里。ガレリア帝国軍が前線基地として接収した街、セドナ。その中心に鎮座する旧領主館の作戦会議室に、悲鳴に近い伝令の声が響き渡った。
「報告! ガンダル砦攻略中のバドウィン・ゲルハルト閣下率いる一個連隊、全滅いたしました!」
「……なんだと!?」
立ち上がり、机を激しく叩いたのは、ガレリア帝国軍参謀長ゾルタン・ディートリヒである。冷徹な知性派として知られる彼の顔が、驚愕に歪んだ。
「どういうことだ。バドウィンは実戦経験豊富な猛将だ。一地方の砦を落とすのに、私の万全の策とともに三千もの部隊を注ぎ込んだのだぞ。」
「まさか……あの性悪魔女、『銀影』が出たのか? それとも『不落の盾』が動いたというのか!? どちらも主力。あんな辺境に現れるはずがない!」
「いえ……。地形を変えるほどの大魔法が使われた形跡があるとの報告ですが、敵主力部隊の姿は確認されておりません。詳細は……確認しようにも、一個連隊が完全に消滅したため、不明にございます」
ゾルタンは震える手で書類を漁った。
「畜生!! なんてことだ……戦略をいちから見直しだ……。本隊の進軍は一旦白紙だ! もっと戦力を集めなければ……皇帝陛下へは何と報告すれば……。当時のガンダル砦の守将は誰なんだ!」
「事前の報告によれば、第四辺境守備隊第五小隊隊長ベリル・ガスト。『不戦の外套』とも呼ばれる男にございます」
「ふん、聞いたこともない名だ。いや、待て……不戦の外套……ベリル・ガストだと?」
ゾルタンの脳裏に、かつての苦い記憶が蘇る。
(以前、領都近郊へ送り込んだ野盗崩れの工作部隊を一網打尽にしたのも、確かその男ではなかったか。三千の精鋭を、一兵も残さず飲み込んだというのか。一体何者なんだ……。ベリル・ガスト……『戦わずして勝つ』とでも言うのか。その異様な二つ名に、底知れぬ不気味さを感じるな……)
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一方、グレイスタイン辺境伯邸の執務室では、ヴィクトール・グレイスタインが落ち着きなく部屋を歩き回っていた。
「……もう一杯だ」
執事に命じ、今日何度目か分からない水を飲み干す。ヴィクトールの喉は、不安で焼け付くようだった。ガレリア王国が国境付近で不穏な動きを見せているのは察知していたが、狙いが辺境の中の辺境、ガンダル砦だとは予測しきれなかった。
何より、そこには交代の任に就いたばかりの嫡男、ヴァルターがいる。
(こちらの兵は、第五小隊と現地の守備隊を合わせてもわずか百三十……。対するガレリア帝国軍は三千の大部隊だと。まさかカスパールが内通していたとはな。先日の野盗の手引きもあやつか。……ヴァルター、無事でいてくれ)
「ヴィクトール伯父様、失礼します」
エリス・ラングレンが入室する。
「準備が整いましたので、私もガンダル砦に向けて出兵いたします」
「あぁ、ベルトルトを先に向かわせてはいるが、くれぐれも気をつけてくれ」
その時、扉が勢いよく開かれた。
「閣下! ガンダル砦より伝令です!」
ヴィクトールは持っていたグラスを握りしめ、身を乗り出した。
「申せ! ヴァルターはどうなった!」
「はっ! お味方の勝利にございます! 守将ベリル・ガストが、ガレリア帝国軍三千を一兵残らず殲滅したとの報告! 味方の被害は軽微、ヴァルター様もご無事です!」
「……は?」
「殲滅……? 被害が、軽微だと? 百三十で、三千をか……?」
ヴィクトールの手から力が抜け、クリスタルグラスが床に落ちて砕け散った。
エリスは驚きの表情で絶句した。
砕けた破片に反射する朝日を眺めながら、辺境伯は信じられないといった様子で立ち尽くした。
息子の試金石として、あえて過酷な地へベリルと共に送り込んだものの、一体そこで何が起きたのか。彼はただ呆然とするほかなかった。




