第三十六話 土壇場の逆転劇
豪雨がすべてを覆い隠す中、ガンダルの街では二つの拠点が静かに、かつ急速に包囲されつつあった。
北の穀物倉庫は、不気味な静寂に包まれていた。潜伏していたガレリア帝国軍の精鋭たちは、約束の笛を合図に飛び出す準備を整えていたはずだった。
「セドリックの情報通りだ…奴らが集まって来たぞ…」
「クソッ、俺たちのの目を掻い潜ってこれだけの兵が潜伏していたとは」
「小隊長の作戦通りいけば、奴らは袋の鼠だ」
だが、その包囲網の外側には、マルク率いる第五小隊とガンダル守備隊の大半が先回りして展開していた。
それでもなお、単純な兵数ではガレリア帝国軍が勝っている。本来ならば、正面からぶつかれば守備隊に勝ち目はない。しかし、倉庫内のガレリア帝国兵たちの様子は、明らかに異常だった。
「……隊長はどうした!? まだ戻られないのか!」
「合図の笛が聞こえないぞ。どうなっている」
「………おい、先ほど裏手で見つかった死体は……ヘイグ隊長らしいぞ……」
指揮官であるヘイグ隊長の遺体が発見されたことで、動揺が広がる。ガレリア帝国軍の指揮系統は完全に麻痺していた。
さらに、追い打ちをかけるように兵士たちが次々と腹を押さえてうずくまり始める。
「お、おい、どうした…」
「くっ……腹が……。夕食の何かに当たったのか……?」
「俺もだ、昨晩からこの調子だ。ちょっと厠へ行ってくる…」
「待て!俺が先だ!我満出来ん」
「馬鹿、持ち場を離れるな!」
雨音に紛れてアルノーがマルクの横に姿を現した。
「仕事は済んだぞ…」
「さすがはアルノーの旦那だな、怖い、怖い」
セドリックが大げさに身震いする。
「ニコ、わたしたちの薬も効いてきたみたいね」
「かわいそうだけど、しかたがないねー」
「奴さん…尻が大洪水だな」
実は、ルルとニコが調合した強力な下剤をセドリックとライアンが酒場や宿屋に潜り込み、兵士たちの食事に仕込んでいたのだった。
戦うどころか立ち上がることさえままならない兵が続出し、精鋭部隊は戦わずして崩壊の危機に瀕していた。マルクはその様子を冷静に見定め、弓兵に合図を送る。今や、包囲している側が圧倒的な優位に立っていた。
「放て…!」
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一方、庁舎の豪華な晩餐会会場では、偽りの歓待が始まろうをとしていた。 カスパールは、ガストンとヘルガを伴って現れたヴァルターを迎え入れ、不敵な笑みを浮かべた。
「ようこそヴァルター様。辺境伯の令息を我が庁舎にお招きでき、光栄に存じます」
ヴァルターが席に案内され、腰を下ろそうとしたその時、カスパールの表情から愛想笑いが消えた。
「……さて、ヴァルター様。貴方には人質としおもてなしさせて頂こう」
カスパールの合図とともに、部屋の各所に隠れていた私兵たちが一斉に抜剣し、三人を取り囲む。
逃げ場のない包囲網。しかし、ヴァルターの隣に立つガストンは、臆するどころか不敵な笑みを浮かべた。
「……へっ、待ちくたびれたぜ。合図はこれだったな!」
ガストンが肺のすべてを使い、建物全体を震わせるほどの猛々しい雄叫びを上げた。 その直後、会場の重厚な扉が轟音とともに蹴破られ、豪雨の湿った風と共に影が滑り込む。
「そこまでだ、カスパール!」
先頭を切って突入してきたのは、ボリスに先導され抜身の剣を構えたベリル率いる第五小隊の精鋭たちだった。
雨に濡れたマントを翻し、戦神のごとき勢いで乱入したベリルたちは、一瞬にしてカスパールの私兵たちを圧倒した。
「なぜだ、貴様ら……『不戦の外套』がなぜここに!、ボリス!貴様!」
狼狽するカスパールの喉元に、ベリルの鋭い剣先が突きつけられた。ベリルは冷徹な眼差しで言い放つ。
「ガレリア帝国軍は殲滅した。あとはお前たちだけだ」
「馬鹿な…くだらん嘘を…三千もの大部隊だぞ…一体どうやって殲滅するだと……」
カスパールが不敵に笑ったその時、背後に控えていた執事のヴィンセントが動いた。
その動きは、執事のそれとは到底思えない、鋭く、無駄のない一撃。
隠し持っていた細剣が、座したままのヴァルターの喉元をめがけて吸い込まれる。
「!!!!!!!」
「ヴァルター、危ねぇ!」
ヘルガが叫ぶが、間に合わない。誰もが最悪の結末を予感した、その刹那だった。
場にいた全員の心臓を握り潰されるような殺気が支配した。
「俺の仲間に、触れるんじゃない」
低く冷徹な声と共に、ベリルが驚くべき神速で割って入る。その速さは、獣人であるガストンたちの目ですら追いきれぬほどだった。
―――キィィィィィン!
凄まじい剣圧が室内の空気を弾き飛ばし、吹き荒れる突風が晩餐のテーブルをなぎ倒す。ヴィンセントの細剣は、ヴァルターに届く寸前でベリルの重厚な刃に防がれていた。
「きっ、貴様……一体……何者だ……!?」
ヴィンセントの顔が驚愕に引きつる。長年、修羅場を潜り抜けてきた彼でさえ、目の前の男から放たれる圧倒的な威圧感に、指先が震えるのを止められなかった。
だが、ベリルはその問いに答えることさえしない。
「死ね」
冷たく言い放つや否や、ベリルの剣が閃く。
それは、もはや剣筋が見えるような速度ではなかった。落雷が落ちたかのような轟音と衝撃。
ヴィンセントは防御の構えをとっていたが、ベリルの剣はそれを紙切れのように粉砕し、受けた剣もろとも、その身体を縦一文字に斬り裂いた。
言葉を発する暇もなく、帝国有数の使い手であった男は、その場に沈む。
ベリルの瞳は一切の揺らぎがなく、絶望に震えるカスパールへとその剣先を向け直す。
刹那の一部始終にヴァルターは静かに息を呑む。
晩餐の場は一瞬にして、逆転の終焉へと塗り替えられた。




