第三十五話 天の慈悲、山の憤怒
第三十五話 天の慈悲、山の憤怒
降り続く雨は、もはや厚いカーテンのように視界を遮り、天と地を灰色の境界線で繋いでいた。叩きつける水滴が岩肌を叩く音だけが、支配的な轟音となって周囲を包み込んでいる。
---
砦の監視塔よりもさらに高い、切り立った崖の岩棚。そこには、激しい雨に打たれながら立ち尽くすミラの姿があった。
ミラは天に祈っていた。この凄まじい雷雨が少しでも収まってしまえば、自分たちの仕掛けや隠密な動きが敵に気づかれてしまう恐れがある。
(……どうか、このまま。この雨が止まりませんように)
指先を組み、必死に念じる彼女の願いが天に通じたのか、稲光が夜空を裂くたびに雷雨はその勢いを増していく。
その時、暴風の唸りに混じって、微かに、しかし鋭い笛の音が聞こえた。ミラが身を乗り出し、水飛沫の向こう側の眼下を凝視すると、そこには整然と、しかし確実に殺気を帯びて進軍するガレリア帝国軍の部隊があった。
ミラは即座に、背後の岩陰で息を潜めていたバルト爺さんとガラムに鋭い合図を送る。すぐさま導火線に火がつけられた。雨に濡れぬよう慎重に保護された火種が、暗闇の中で一筋の光となって薬室へと這っていく。
数秒の後、爆薬が炸裂した。
――ズ、ドォォォォォン!!
腹の底を揺さぶるような激しい地響きが轟く。雷鳴すらもかき消すほどの爆音とともに、山そのものが悲鳴を上げ、巨大な岩塊が次々と剥がれ落ちていった。
(ああ、この雷雨がすべてをかき消してくれる。そして、凄惨な跡さえもすべてを洗い流してくれるだろう……)
ミラは激しく打ちつける雨を全身に浴びながら、再び天を仰いだ。彼女は、自分たちを救い、敵を葬り去るこの恵みの雨に心から感謝した。
---
一方、西の街道を突き進むガレリア帝国軍。侵攻部隊の指揮官バドウィン・ゲルハルト将軍は、泥を跳ね上げる愛馬の上で、隠しきれない悦に浸っていた。本国の参謀殿から授けられたこの作戦と大部隊は、細部に至るまで着々と、そして完璧に進んでいた。
数年前から腕利きのヴィンセントを間者として送り込み、ガンダル砦の執政官カスパールを調略して情報を集めてきた。
そして今、小出しに兵士をガンダルの街に紛れ込ませ、険しい東の関所へ続く街道も、工作部隊を動員して攻城兵器を携えたまま行軍できるように整備したのだ。
潜入部隊、工作部隊とは、この嵐の中でも笛の音を使って綿密に連絡を取り合い準備万端である。すべては彼の掌の上にあるはずだった。
情報によると、守備隊の入れ替わりで『不戦の外套』と揶揄される臆病者の部隊が着任したらしい。しかも、そこには辺境伯の令息という、この上ない「土産」まで持って。
(連中は気づいていないようだが、ガンダル砦を落とせばグレイスタイン領はもちろん、アステリア王国侵攻の大きな足がかりとなる。この作戦を成功させれば間違いなく王国史に名を残す偉業、陞爵も思いのままだ)
バドウィンは暗い雨空の下で、自らの輝かしい未来を確信していた。 関所を超えるまでは、そう思っていたのだ。
関所を越えた地点で、彼は合流の合図としてもう一度笛を吹かせた。……だが、期待していた応答の笛がない。
「……聞こえんのか? この雷雨で聞こえなかったのだろう」
彼はしばらく待ってから再度笛を吹かせる。しかし、やはり応答はない。それどころか、山の上方から、雷鳴とは明らかに質の違う、臓腑を震わせるような地鳴りが響いてきた。
「……何の音だ?」
彼が不審に思い、山頂を見上げた瞬間、バドウィンの瞳は驚愕に見開かれた。
天の怒りのような稲光に照らし出されたのは、暴力的な土石流だった。巨大な岩石を飲み込み、森をなぎ倒しながら突き進む土石流の黒い波は、さながら山の怒りのようだった。
逃げ場のない狭い街道で、絶望的な破壊の奔流が、すぐ眼前にまで迫っていた。




