第三十二話 紅い徴
窓を叩く激しい雨音が、石造りの詰め所に低く響いている。
ベリルから指示を受けたライアンが、椅子に深く腰掛けていたアルノーの前に立った。
「なあ、アルノーの旦那。『あれ』……貸してくれないか」
アルノーは顔を上げると、怪訝そうに眉を寄せた。
「……あん? 何のことだ」
すると、横からセドリックがニヤリと笑い、アルノーにクイッと顎で目配せをした。
「とぼけないでくれよ。旦那の『それ』だよ。まだ持ってんだろ」
アルノーは一瞬の間を置いた後、ふふっと短く笑う。
「……目ざとい奴らだ」
アルノーが頷くのを見届けると、二人は雨の夜へと消えていった。
---
街の中通りにある、酒場の暖簾をくぐったのは、それから間もなくのことだ。
店内には、荒事に従事していることが一目でわかる男たちが多数、テーブルを囲んでジョッキを煽っている。二人は迷わず、その中でも特に声の大きい一団の隣に陣取った。
「いやぁ酷い雨だぜ、ちょっとごめんよ」
「おい親父、こっちの旦那衆にもエールを注いでくれ! 景気づけに俺の奢りだ!」
セドリックが気前よく金貨をカウンターに叩きつけると、ガレリア帝国の潜伏兵らしき男たちが一斉にこちらを振り返った。
「……なんだぁ、見ねぇ顔だな…お前さん、随分と景気がいいじゃねえか」
一人の大男が、疑り深い目でセドリックの足元を盗み見る。そこでセドリックは、わざとらしく足を組み替え、ブーツの「赤い裏地」を男の視界に滑り込ませた。
「へへ、そりゃあな。昨夜は裏通りの賭場でよぉ、博打の女神様が俺の肩にべったりと張り付いてくださってよ。配られたカードが面白いように望み通りの役を連れてきたのさ。ブラフも全部通って、一晩で金貨十枚分は掠め取ったぜ」
「金貨十枚だと!?」
男たちの目の色が変わる。ライアンも手慣れた様子で、手近な男の肩を叩きながら下卑た笑いを浮かべて会話に加わった。
「ああ、そいつは本当だ。それでよ、その『女神様』へのご加護にお礼をしなきゃ罰が当たるってんで、そのまま『銀の百合亭』へ直行したのさ……アンナって娘を知ってるか? あのしなやかな腰つきこそ、本物の女神の肉体ってもんだぜ。おかげで一晩中、新たに『ご加護』をたっぷり授かってきたってわけよ」
「ガハハ! 女神様にお礼参りか、そりゃあ粋な信心だな! アンナか、違いない、あの娘の腰使いは最高だ。兄弟、なかなか分かってるじゃねえか!」
共通の不道徳な話題に、男たちの警戒心は急速に解けていった。
奢られた酒を喉に流し込み、男たちは自分たちの儲け話や女の話で盛り上がり、セドリックたちを完全に「同じ穴の狢」だと確信した。
場が最高潮に温まり、大男が上機嫌でセドリックの背中を叩いたその時。セドリックは少し声を落とし、困ったような顔をして身を乗り出した。
「ところでよ、兄弟……。一つ確認させてくれ。昨日の女神様のご加護が強すぎて、どうも頭が霞んでてよ。あの仕事のことだがよ……明日の夕刻…中央広場に集まるんだったか?」
「あぁ? お前、そんな寝ぼけたこと言ってるとヴィンセント様に首を撥ねられるぞ」
大男はゲラゲラと笑いながら、セドリックの耳元で囁いた。
「広場なんて目立つ場所で集まるわけねぇだろ。それに明後日の夕刻だ。その前にヴィンセント様から指示を受けたヘイグ隊長の合図の笛があるはずだ。場所は北の外れにある古い穀物倉庫だぜ。 忘れんじゃねぇぞ」
「おお、そうだった、明後日の夕刻か!北の穀物倉庫だったな! 助かったよ。これでもう一杯、今度はもっと強いやつを奢らせてくれ!」
セドリックは快活に笑いながら、隣で静かに杯を傾けていたライアンと一瞬だけ視線を交わした。
雨は依然として激しく降り続いていたが、その轟音はもはや、彼らにとって反撃の序曲にしか聞こえなかった。




