第三話 泥濘の回収
月明かりさえない漆黒の森を、第五小隊は急ぎ足で突き進んでいた。激しい雨が地面を叩き、道は底なしの泥濘と化している。
「……はぁっ、はぁっ……小隊長、……!」
新兵のデニスが息を切らして訴えると、先頭を行くベリルは即座に歩みを緩めた。
「ああ、すまないデニス。焦らせてしまったな。……皆、足元は大丈夫か? 泥に足を取られて挫かないように気をつけてくれ。怪我をしたら元も子もないからな」
ベリルは申し訳なさそうに眉を下げ、部下たちの顔色を一人ずつ覗き込む。その姿は戦場の指揮官というより、重い荷物を背負った弟妹たちを気遣う長兄のようだった。
「小隊長、お人好しが過ぎますよ。今は一刻を争う救出任務なんですから」
副官のマルクが苦笑いしながら肩をすくめる。その横を、狼の獣人ライアンが音もなく追い抜いていった。
「ライアン、頼んだぞ。……アルノー、どう思う?」
ベリルの問いに、最後尾を歩いていた古参兵アルノーが、雨に濡れた顔を上げた。
「……死臭が混じり始めてるな。手遅れになる前に、動くべきだろうな」
ベリルの顔からお人好しな笑みが消え、短く乾いた指示が飛ぶ。
「わかった、各員配置に付け。マルク、弓隊を左右の斜面に展開。崖下の影を優先して叩け。ヨハン、ガストン、正面の泥地を切り開く。デニス、お前は俺の斜め後ろで負傷者の回収を支ろ。……行くぞ」
前方のすり鉢状になった泥地。そこでは、魔獣の群れに囲まれ、今にも決壊しそうなレオン・ボルドー率いる小隊が、泥に足を取られ無様に足掻いていた。
「ガストン、道を作れ!」 ベリルの号令に、虎の獣人ガストンが咆哮と共に飛び出した。
「おう! どきな、もやしっ子共が!」
ガストンは沈み込む泥をものともせず、人間二人分はある大盾を正面に突き出し、魔獣の群れを力任せに弾き飛ばす。
泥濘の中では誰もが動けないはずが、彼の剛脚は底の岩盤を捉えているかのように力強い。
「ヨハン、右翼を締めろ! 崩れるなよ!」
「言われなくても分かってる! 野郎ども、道から逸れるな!」
ヨハンが歩兵を統率し、ガストンが抉じ開けた隙間を瞬時に壁で固定する。その完璧な連動の中に、ベリルが滑り込んだ。
襲いかかるシルバーウルフに対し、ベリルは腰の得物を引き抜く。薄黒い刃が動くたび、獣の眉間には深い断絶が刻まれた。
撫で斬るというよりは、刃自体の重みで圧し切るような一撃。切っ先が触れた瞬間、獣の骨は抵抗を許されず音を立てて砕け、咆哮を上げる間もなく泥に沈んだ。
デニスは、その横顔を見て背筋が凍るような思いがした。
ベリルの視線は、常に背後の負傷者や部下たちの足元、さらに泥濘の深さに向けられている。飛びかかる獣をいなす所作は、まるで邪魔な藪を払い除けるかのように淡々としていた。
「慌てるな。ボルドー隊、盾を合わせろ。今、道を作る」
孤立していた兵士の襟首を掴んで引き寄せると、自分の背後へと送り出した。
そこではセドリックが「ほらよ、死にたくなきゃ俺に捕まれ!」と、軽口を叩きながら負傷者を回収していく。
「遅いぞ、ガスト!! 貴様、わざと遅れたのではあるまいな!!」
救われたはずのレオン・ボルドーが、恐怖の裏返しでベリルに怒鳴り散らす。
「申し訳ありません、ボルドー卿。不徳の致すところです」 ベリルは罵声を浴びながらも、手は休めない。
「マルク、合図を送れ。ヨハン、左右へ展開してボルドー殿たちを引き抜け。ガストン、沈んだ馬車を押し上げろ! デニス、肩を貸せ。……よし、全員いるな。退くぞ」
ベリルの采配により、泥に沈みかけていたボルドー隊に再び脈動が戻る。彼は罵声を浴びせられながらも、泥まみれになった兵たちを一人ずつ丁寧に、安全な陣の内側へと誘導していった。
「小隊長、あんな奴のことなんて放っておけばいいのに」
デニスが隣で負傷者を担ぎながら、悔しげにぼやく。
「まあそう言うな、デニス。彼らにも帰りを待つ家族がいるだろう。……さあ、急ごう。夜明け前には、温かい粥を皆に食べさせてやりたい」
ベリルは困ったように笑い、最後尾で退路を塞ぐように盾を構えた。 泥を被り、罵倒されてもなお、彼の外套だけは不思議と汚れを弾いているように見えた。




