第十六話 教育係の憂鬱と、磨き抜かれた机上の剣
朝の詰所は、倦怠した空気が支配していた。
窓から差し込む朝光は埃を白く照らし、そこには『不戦の外套』と揶揄される第五小隊の日常があった。
二日酔いで机に突っ伏して唸っている者、手垢で黒ずんだカードを無造作に繰りながら、昨日勝った銀貨の計算をしている者。
そこへ、その淀んだ空気を切り裂くような、場違いなほど鋭く規則正しい足音が響いた。
現れたのは、白銀の装飾が施された士官服を寸分の乱れもなく着こなす青年――ヴァルター・グレイスタインだ。その立ち姿は、まるでこの不潔な詰所において、そこだけが別の世界であるかのような潔癖さを放っていた。
ベリルは、座っていた椅子の背もたれからゆっくりと重い腰を上げると、後頭部を掻きながら、申し訳なさそうに隊員たちへ声をかけた。
「……あー、みんな、ちょっといいかな。手を止めてくれ。今日からしばらく、うちの小隊に同行することになったヴァルター様だ。……閣下のご子息だけど、現場では他のみんなと同じように接してほしいそうだ。……まあ、適当に仲良くやってくれ」
ベリルの脱力した紹介が終わるか終わらないかのうちに、詰所の奥から低い笑い声が漏れた。
「へぇ……辺境伯家のお坊ちゃんが、こんなカビ臭い掃き溜めにねぇ」
ライアンが欠けたナイフで爪を掃除しながら薄笑いを浮かめる。その目は笑っておらず、ヴァルターの眩い装備を舐めるように見ていた。
「坊ちゃん、ここにはあんたが学校で習ったような『誇り高き騎士』なんて一人もいねえよ? 埃を被って逃げ回るのが専門のネズミ小屋だ」
アルノーが、ヴァルターの磨き抜かれたブーツを眺めて、わざとらしく鼻を鳴らした。
「せっかくの綺麗な服が台無しだ。俺なら三日で逃げ出すね」
セドリックが気怠そうにニヤける。
ヴァルターは、その不衛生で規律の欠片もない光景に微かに眉をひそめた。
だが、彼は言葉を返す代わりに、値踏みするようにベリルを凝視した。その瞳には、父である辺境伯への忠誠と、自身の積み上げた努力が否定されたことへの、静かだが激しい拒絶が宿っている。
「――父上は私に、ただ一言『ベリルに学んでこい』とだけ仰いました。騎士学校を首席で終え、戦術も剣技も完璧に修めた私に、これ以上何を学べというのか。ましてや、その相手が……失礼ながら、あなたのような方だとは」
ヴァルターの視線は、ベリルの整えられていない無精髭から、手入れはされているが、古びて傷だらけの装備へと向けられた。
「この部隊が『不戦の外套』と揶揄されている理由は、この惨状を見れば察しがつきます。戦う意志すら感じられない。……小隊長、貴殿は騎士学校ではどなたに師事されたのですか? 貴殿の剣筋を見れば、ある程度の流派は察しがつきますが。私は古流から最新の魔導剣術まで、主要なものはすべて頭に入っています」
ベリルは、頭の芯がじわじわと痛むのを感じながら、曖昧な笑みを浮かべた。
「……騎士学校、ですか。残念ながら、私はあそこへは通っていないんですよ。十五の時に急ぎ家督を継ぎましてね。そのまま戦場へ放り込まれて、気づけば十年以上、生き残ってきた。ただそれだけです。師と呼べるのは、戦死した父や従騎士として付き従った騎士様くらいなものですよ」
「正規の教育も受けず、ただ生き延びただけ……」
ヴァルターの言葉には、隠しようのない失望が混じった。彼にとって騎士とは、高潔な理想と、何百年もかけて洗練された体系的な技術の上に成り立つ存在だ。目の前の男は、そのどちらも持ち合わせていない――ただの、幸運な臆病者にしか見えなかった。
「私は父上の言葉に従い、何かを掴むまでここを去るつもりはありません。ですが、もしあなたが本当に噂通りの『臆病なだけの男』なのだとしたら……その時は、父上の判断が誤りであったと、私が証明することになるでしょう」
ヴァルターは腰の剣――一族の紋章が刻まれた名剣の柄に手をかけ、鮮やかな所作で踵を返した。その一挙手一投足に、首席としての誇りが滲んでいた。
「……分かりました。では明日からの砦の交代任務に同行していただきます。そこで、閣下が貴方に何を学ばせたかったのか、ご自分で探してみてください。」
「……承知した。」
青年が立ち去った後、詰所には再び、だらけきった沈黙が戻った。トランプを繰っていたセドリックが、ベリルにニヤリと笑いかける。
「小隊長、あのお坊ちゃん、明日には泣き出すんじゃないですか? あの綺麗な長靴が泥に浸かっただけで気絶しそうだ」
ベリルは深く椅子に沈み込み、天井の染みを眺めて深い溜息をついた。




