第十一話 風の囁き、予兆の影(中編)
詰所の重い扉を押し開けると、湿った湯気と共に、いつもの騒がしい議論がベリルの耳を打った。
「だからよ、デニス! 鶏肉は皮目をパリッと焼かなきゃ意味ねえんだよ!」
ヘルガがよだれを流しながら言い放つ。
「バカ言え、ヘルガさん! 煮込んで出汁を吸った柔らかい肉こそが至高だろ!」
「ホントバカなヤツら、ヘルガはもっと女の子らしくなさい」
狩人で薬師のルルがヘルガの口元よだれを拭きながら呆れる。
ベリルは何も言わず、二人の間の机に二つ折りの指令書を放った。乾いた音が響き、不毛な議論がぴたりと止まる。情報通のマルクが、赤い封蝋を覗き込んで片眉を上げた。
「……随分と物騒な色の印章ですね。お疲れ様の差し入れじゃなさそうだ」
ベリルは椅子を引き、重々しく腰を下ろした。
「明朝、第五小隊単独で出陣する。場所は『沈黙の谷』。野盗『黒い牙』の掃討だ、数はおよそ三十。」
「沈黙の谷っていやあ、商人たちが抜け道に使っているっていう谷じゃないか」
マルクが記憶を紐解くように呟き、顔をしかめた。
「そんなところを野盗がねぐらにしてんのか。迷惑な奴らだな」
「ふーん。何で『沈黙の谷』なんて言うんですかね。ただ静かなだけじゃないんですか?」
デニスが首を傾げると、隅で目を閉じていたミラが、静かに首を振った。
「……あそこの地形は特殊なのよ。谷の両端は極端に狭い峡谷で中心部は盆地になってるの」
「そのせいで谷の出入り口で立てた小さな物音が反響して、奥では大きな音になるのよ。出入り口でした儲け話が、谷の奥にいる商人に筒抜けになって大損する……だから、誰もが口を閉ざして通り抜けるのよ。反対に、谷の奥での密談は外へは漏れないわ」
「さすが物知りだな、年の功ってやつか」
「…………」
「……第五小隊最初の戦死者はあなたになりそうね、セドリック」
ミラがセドリックの首元に鏃を這わせる
「こっ、言葉の綾だ、勘弁してくれぇ」と喉を鳴らす
「しかし単独、だと? 両端を絞られたあの狭い谷へ、うちの人数で突っ込めと言うのか!」
バルト爺さんがジョッキを置き、不機謙そうに鼻を鳴らした。
そこでライアンが、待ってましたと言わんばかりに身を乗り出す。
「なあ隊長! だったらよ、入り口と出口の両方から一気に挟み撃ちにすりゃあいいじゃねえか! 袋の鼠にして、まとめてブチのめしてやろうぜ!」
マルクが即座にそれを鼻で笑った。
「……いいか、ライアン。そんな素人みたいな提案はするな。あそこは入り口も出口も、せいぜい馬車が一台か二台通れる程度に絞り込まれている。そんな場所に二手に分かれて突っ込んでみろ。細い列になったところを、奥から順に狙い撃ちにされて終わりだ」
「そもそも、谷に入った物音ですぐ気づかれて待ち伏せされるのがオチだろ。これだから犬っころは」
セドリックが冷淡に追い打ちをかけると、ライアンの顔が朱に染まった。
「んだとテメエ、セドリック! 言わせておけば……!」
「事実を言ったまでだ。脳まで筋肉で詰まってるのか?」
言い合いを始めた二人を無視し、ガストンが太い腕を組んで険しい崖を指差した。
「……なら、崖の上からロープで降りるのはどうだ? 上から降って度肝を抜いてやりゃあいい」
だが、ミラが即座に首を横に振った。
「無理よ。崖の上で杭一本打っただけで、その響きは谷底まで『鐘の音』みたいに届くわ」
「じゃあよ、連中が中で酒飲んでバカ騒ぎしてる隙に、どさくさに紛れて乗り込むのはどうだ?」
ライアンが食い下がるが、ミラの声はさらに冷ややかさを増した。
「……いいえ。中の音は収束するけど、外からの音は響くから、どんなに騒いでいても気づかれるのよ。酔っぱらった奴らに『これから行きますよ』って、耳元でドアを大きくノックするようなものよ」
「うへぇ……。酔っぱらった時にそりゃあ、頭に響いてたまんねえな」
セドリックが顔をしかめて零したその一言に、ベリルの指がぴたりと止まった。
「……耳元で、ドアを叩くか……」
「…………………!」
ベリルは地図を睨み、ハッとする。
「ルルは大量の特に刺激の強い香辛料と硫黄をかき集めてそれらを調合してくれ。……ガストン、お前は鉄の盾をすべて集めろ。それとバルト爺さんは鍛冶槌を人数分だ」
ルルは首を傾げながら頷く。
「槌……? 隊長、まさかその槌を武器に野盗と戦えってのか? 剣も槍も使わずに?」
ガストンが自らの太い腕と槌を交互に見比べ、怪訝そうに眉を寄せた。ベリルは構わず指示を飛ばす。
「ライアン、お前は倉庫にある『蜜蝋』と『綿』をありったけ持ってこい。……それとニコ、片手でつまめるような弁当を人数分作ってくれ」
「片手でつまめる弁当?サンドイッチとか?」 ニコの問いに頷き、ベリルは静かに立ち上がり、腰の剣を直した。
「ああ、息をつく暇もない長丁場になるぞ。……俺たちらしい戦い方でカタをつける」
多くの隊員が首を傾げる中、壁に背を預けていたアルノーだけが、ふと薄目を開け、ニヤリと笑った。




