第十話 風の囁き、予兆の影(前編)
ある日の昼前、演習場の砂塵が収まり、部下たちが心地よい疲労感を漂わせながら解散していく。
ベリルは鞘に収めた剣の重みを確かめ、デニスをはじめとする若い兵士たちの背中を見送った。
「隊長、お疲れ様です! もう昼メシ食べに行っても良いですか?」
デニスが快活に声をかけてくる。ベリルは苦笑混じりに応じた。
「ああ。しっかり食っておけ。……だが、食いすぎて次の訓練で腹を壊すなよ」
笑い声が兵舎へと消えていく。賑やかさが遠のくにつれ、ベリルの胸の奥には、湿り気を帯びた風のような「ざわつき」が残った。
その日の夕刻。辺境伯ヴィクトール・グレイスタインからの急使が、ベリルの詰所へ現れた。
「ベリル小隊長。閣下が至急、執務室へ参じよとのことだ」
使者の硬い声に、ベリルの表情から笑みが消える。
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辺境伯の屋敷へ足を踏み入れた瞬間、重苦しい空気が肌を刺した。
一週間以上前の論功行賞――中央から来た騎士たちが、堅実に立ち回ったベリルたちを「腰抜けの辺境騎士」と公然に貶めたあの場での空気が、いまだに屋敷の隅々にまで沈殿している。
「それでは伯父様、失礼します」
絹糸ような銀髪をなびかせ白銀の甲冑を纏ったその姿は、人ならざる美しさと峻烈な威圧感を放っていた。 辺境伯家が誇る最強の家臣であり、大陸でも数少ない最強の騎士のひとりに数えられる魔導騎士――『銀影』エリス・ラングレン。
すれ違いざまベリルが一礼するがエリスは興味なく通り過ぎて行った。
「……ベリルか。入れ」
ヴィクトールは顔を上げず、苛立たしげに書類を捌き続けていた。
「失礼いたします。閣下、お呼びと伺い――」
「貴公の報告書だ。相変わらずだな。家督を継いで十五年、いつまで隠居老人のような文言を並べるつもりだ」
ヴィクトールの視線が、不意にベリルを射抜いた。
「恐縮です。私はただ、閣下の指示通り持ち場を守ることに専念したまでで……」
「その『専念』のせいで、中央の鼻つまみ者どもが図に乗ったのだ!!! 貴公がその家名に見合う槍働きを見せていれば、連中の軽口をその場で叩き折れたものを!」
ヴィクトールは声を荒げたが、ふんと鼻を鳴らすと、一枚の指令書を机に叩きつけた。
「北の『沈黙の谷』の最奥部だ。『黒い牙』と名乗る野盗が隊商を襲い、さらに、近隣の村々を荒らしている。斥候によると数はおよそ三十人と聞いている。ベリル、貴公の小隊だけでこれを叩け。偵察ではない、討伐だ」
「……小隊だけで、ですか」
「不服か。いつまでも『堅実』の二文字に逃げ込むことは許さん。これは罰ではないが、相応の働きを期待しているぞ」
ヴィクトールは突き放すように言い放ったが、その視線はベリルの腰にある剣に止まっていた。そこには、子飼いの意地を見せてこいという、彼なりの不器用な圧力が宿っている。
「……承知いたしました。第五小隊、これより準備に入ります」
「行け。野盗如きに後れを取るようなら、その家名は私が預かる」
ヴィクトールは再び書類へ目を落とした。
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廊下に出ると、夕闇が石畳をじわじわと侵食し始めていた。
ベリルは懐から指令書を取り出し、丁寧に二つに折ると、再び懐へ仕舞い込んだ。
「……槍働き、か。閣下も人使いが荒い」
眉間に指を当て、やれやれと首を振る。
歩きながら、頭の中では「沈黙の谷」の歪な地形が浮かんでいた。あそこの岩場なら、正面から行くよりは北の崖上を取るべきか。ライアンの足なら、あの斜面も苦にはなるまい。
(……いや、連中に無理はさせたくないな。まずは一人、先行させて様子を確認させるか)
顎に手をやり、数歩進んでは立ち止まる。 頭の中で部下たちの顔ぶれと装備を並べ替え、最も「無難に」終わる布陣を組み立てては、また崩した。
「さて……。夕飯の前に、少し図面を引くか」
詰所へ向かう足取りが、無意識に速くなる。ベリルの目はすでに、沈みゆく太陽の向こうにある、険しい谷の影を捉えていた。




