30.知らなかったあなた
シルフィンがそっと席を外してから、少しだけ時間が経った。
部屋には静寂が戻っていたけど、さっきまでの張り詰めた空気は、どこか和らいでいた。
西側の窓から差し込む夕陽が、カーテン越しに淡い色を落としている。
私とノエルは、並んで座ったまま、まだ手を握っていた。
「……ねえ」
私が少し顔を向けて、ぽつりと訊いた。
「好きな食べ物とか、あったっけ? 前は……そういうの、話さなかったよね」
ノエルは少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「……意外かもだけど、私猫好きだったの。食べ物では……甘いものが好きだった。特に、バタークッキー」
「猫……なんとなくわかるかも。気まぐれそうで、でも繊細で、可愛いところとか」
「ふふっ。それ、褒めてる?」
「もちろん」
自然と、二人の間に笑みがこぼれた。
さっきまで泣きじゃくっていたのが嘘みたいに、穏やかな時間が流れている。
「私、前世でパティシエになりたかったんだ」
「パティシエ?」
「うん。わりと本気で、制服のデザインまで考えてた。夢ノートも作ってたし……今思えば、現実逃避だったのかもしれないけど、それでもあの頃は、それが楽しみだった」
ノエルは少し考えるように目を伏せ、それから優しい声で言った。
「そういうの、知らなかったな。知ろうともしなかった」
「私も、そうだったよ」
そこで、言葉が途切れる。
でも、不思議と苦しくはなかった。
沈黙のなかで、夕陽がゆっくりと床に長い影を落としていく。
「もし、前の世界で……こんなふうに話せてたら、少しは違ってたのかな」
私の声は、夕暮れに溶けていくようだった。
「うん……たぶん違ってたと思う。でも、それを言っても遅いのよね。あの頃の私たちには、できなかったことだから」
「そうだね。でも今なら……やり直せる気がする」
ノエルは、私の手を少しだけ強く握り返した。
「私もそう思う。今なら──きっと」
私たちは、ようやく親しさの端に立っていた。
まだぎこちないけれど、それでももう、魔法も怒りも必要のない場所にいた。
やがて、ノエルが静かに立ち上がった。
「今日はありがとう。長くいすぎちゃったね」
「ううん、来てくれてよかったよ」
そう言って微笑むと、ノエルは少し照れくさそうに頷いた。
「あれ?もう大丈夫なの?」
「うん。今日は、アリアと話すからって……来ただけだから」
玄関へ向かう彼女よ足取りはまだ少し重かったけれど、背筋は真っ直ぐだった。
扉が閉まり、再び静けさが戻ってくる。
ふと横を見ると、シルフィンがいつの間にか戻っていた。
紅茶のカップを手に、静かに私の隣に座る。
「……話、できたんだね」
その一言が、胸に染みた。
私は頷いて、けれど少しだけ目を伏せた。
「うん、ちゃんと話せたよ。でも……なんていうか、心の奥が変な感じだった。泣いたから、じゃなくて……」
うまく言えない気持ちが、胸の中にまだ渦を巻いていた。
シルフィンはそっと、私の手を取った。
あたたかい手だった。
「アリア……あなたたちは、どっちも傷を抱えてたんだと思う。誰かを傷つけたこと、見過ごしたこと。その痛みはきっと、誰にでもある。でも、それだけじゃない」
彼女はゆっくりと、でも確かな声で続ける。
「過去は変えられない。でも、今のあなたたちはもう、過去のままじゃない。今回、あなたたちは手を伸ばした。自分の痛みも、相手の痛みも抱えて、それを理解した、すごいことだと思うよ」
私は黙って、その言葉を聞いていた。
胸がきゅっとなる。けれど、それは苦しさではなく、何かがほぐれていくような温かさだった。
「……らしくないよ、そんな綺麗事」
小さく笑ってみせると、シルフィンも肩をすくめて笑った。
「いいじゃん。綺麗事でも言わせてよ。私だって、あなたとノエルの友達だから」
私はもう一度目を伏せた。
けれど今度は、静かに笑っていた。
「……ありがとう、シルフィン」
彼女はうんと頷いて、それからそっとカップを差し出してきた。
「お茶、飲む? あったかいよ」
「……うん、もらう」
夕暮れは、ゆっくりと夜に変わりつつあった。
けれど、この部屋の空気は優しかった。
いつまでも、いつまでも……。




