29.灰の向こう側
部屋は静かだった。
窓から射す夏の夕陽が、床にオレンジの影を落としている。
シルフィンの案内で、私は彼女の家に足を踏み入れた。
そこにいたのはノエル──いや、山本美沙。
白い包帯が腕を巻き、薄いシーツの上に座っている。
その姿を見た瞬間、私は胸の奥にあった何かがぐしゃりと潰れるのを感じた。
でも、表情には出さなかった。
私は、ただ冷たく、そして強く、自分を律するように睨みつけた。
──空気が重い。
重すぎて、呼吸が難しいほどに。
ノエルもまた、私を見ていた。だが、視線がすぐ逸れた。
私は一歩、踏み込む。
何も言えずにいた私たちに、シルフィンが小さく口を開いた。
「二人とも、ちゃんと話して。もう……黙って傷つけ合わないで」
その言葉に、私はゆっくりと顔を上げ、ノエルの目を見据えた。
「……なんで、生きてるの」
呟くだけで、怒りが込み上げてくる。
「なんで、死んでくれなかったの。また、私に殺されたいの?」
私は怒っていた。叫ぶように。燃えるように。
でも本当は、どこかで答えを探していた……いや、もう見つけていたのかもしれない。
ノエルは一瞬だけ目を伏せ、震える唇で答えた。
「……私だって、死んだと思ってた。でも……シルフィンは、私をわかってくれた」
あえて「助けられた」とは言わなかった。
それが、余計に私の感情を逆撫でした。
掌に炎が灯る。
あの時と同じ、灼熱の魔力が私の中を駆け巡る。
「わかってくれた……?ははっ、誰が?シルフィンが!?彼女が、あんたの何をわかってるってんのよ!」
炎がうねり、空気が焼ける。
──でも。
「やめて、アリア!」
シルフィンが即座に私の前に立ち、手を握った。
「彼女は、既に一度死んだ。もう、あなたが彼女を壊す必要なんてない」
その声に、私の手から魔力が少しずつ揺らぎ、熱が下がっていく。
「あなたは、前の世界でノエルとその友達にいじめられてたんでしょ?それは、とても辛かったと思う。でも、もうあなたをいじめる人はいない。私がついてる。だからお願い……これ以上、誰かを壊さないで」
その言葉は静かに、でも確実に私の胸に届いた。
私は、目を伏せて呟いた。
「……わかんないよ、もう……」
唇が震える。止まらない。
「あんなに憎かったのに。終わったはずだったのに。なのに……どうして、まだ私の中に残ってんのよ……!」
涙が頬を伝った。
炎は消え、魔力は霧散していく。
「ごめんなさい。あの日、あの教室で、私が逃げなければ。笑わなければ。見ないふりをしなければ──」
ノエルが、自分の言葉で語り出した。
「アリア……言ってたよね。"私はお前たちに苦しめられて、殺された"って。その通りだと思ってる。だから、あの時燃やされたのは当然……むしろ、生きてたのが申し訳ないと思う」
その声に、嘘はなかった。
私は、何も言えなかった。
何かが崩れていく音がした。胸の奥で。
──この人は、変わろうとしている。
なのに私は、まだ許せていない。
どうして?なぜ?
言葉にならない思いが喉の奥で絡まって、吐き出せなかった。
私は、両手をぎゅっと握りしめたまま俯いた。
こんなに涙が出るなんて、思ってなかった。
憎くて、憎くて……ただ燃やして、消し去って、それで終わるはずだったのに。
「……ノエル」
その名前を呼ぶのが、怖かった。
でも、それ以外にもう言葉がなかった。
顔を上げると、ノエルも私を見ていた。
目は赤く、泣き腫らしていた。
あの頃の教室で見た彼女の顔じゃない。
勝ち誇った顔でも、無関心な仮面でもない。
──ただの、ひとりの、壊れそうな女の子の顔。
私は、ゆっくりと手を伸ばした。
彼女の前に、震える指先を差し出す。
「まだ、あんたを許せてはいない。でも……」
言葉が詰まる。
「私も……本当は怖かったのかも。終わってしまうのが」
ノエルが、ゆっくりと自分の手を重ねてきた。
指先が触れ、熱が伝わる。
涙がまた一筋、頬を伝った。
「ごめんなさい……本当に、本当にごめんなさい……」
かすれた声で、ノエルが言った。
私もまた、唇を震わせながら応えた。
「私こそごめん。あなたはノエルで、もう、美沙じゃないんだよね。なのに……」
二人の手が、確かに重なっていた。
痛みと後悔と、赦しきれない思いと。
そのすべてが、今ここで混ざり合っていた。
赦すとか、赦されるとか、そんな簡単なことじゃないけど……それでも。
「ありがとう、シルフィン……」
私はふと、そう呟いていた。
彼女がいなければ、きっとこの手を伸ばすことさえできなかった。
シルフィンは、少しだけ微笑んで──それから目尻をぬぐった。
「……うん、よかった。二人とも、今日はここまでにしよう。すぐには無理かもしれない。でも……少しずつ、少しずつでいいから、仲直りしていこう」
その言葉に、私もノエルも小さく笑った。
涙まじりで、ぐちゃぐちゃな笑顔だったけど、それでも──確かに、あの頃とは違っていた。
そしてこの瞬間、私は少しだけ前に進めたような気がした。




