21.消えない傷跡
気がついた瞬間、私は勢いよく上体を起こした。
「っ!!」
荒い息が漏れる。
心臓が激しく脈打ち、全身がじっとりと汗ばんでいた。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をしながら、私は無意識に周囲を見回す。
誰もいない教室。夕焼けの廊下。ノエルの顔。そして……。
『うっさい。こっちくんな』
山本美沙の声。
それは、耳の奥でまだ響いている気がした。
「……」
喉が乾いている。胸の奥がざわつく。
夢の内容が、あまりにも鮮明だった。
あの目。あの声。あの日々。
忘れたくても忘れられない記憶。
「ノエル……」
思わず名前が漏れる。
もちろん、ノエルがあんなことを言うはずがない、とはわかっている。
なのに、夢の中で見た表情が頭から離れなかった。
「……夢?」
ようやく私は、そう呟いた。
しばらくしてから、少しずつ呼吸が落ち着いてくる。
そして、改めて周囲を見る。
見慣れた天井。自分の部屋。窓から差し込む朝日。机の上に置かれた本。壁に掛けられた上着。
ここは、誰もいない学院ではない。前世の学校でもない。
私は今、アリア・ベルナードとして生きている。
「……」
数秒間そのまま座り込んだ後、私は大きく息を吐いた。
「よかった……」
そうだ、夢だったんだ。
少なくとも、あれは現実ではない。
それだけは確かだった。
とはいえ、胸の動悸はなかなか収まらない。
私は布団を握り締める。
まだしびれが残っているのか、指先が少し震えていた。
前世のことを思い出す夢は、今までにも見たことがある。けど、今回の夢はどこか違った。
言わずもがな、美沙がノエルの姿をしていたからだ。
今の友人と、前世のいじめっ子が重なった。
その事実が妙に気持ち悪い。
「……最低だな、私」
小さく呟く。
ノエルは優しい。植物のことを教えてくれて、一緒に野外実習を頑張ってくれて。
私を仲間として扱ってくれた。
そんな子を、夢とはいえ前世のいじめっ子と重ねてしまった。
それが、少し申し訳なかった。
「違うのに……」
わかっている。ノエルは山本美沙じゃない。もちろん、シルフィンも違う。ライドもマシュルも違う。
誰も、あいつらじゃない。
それでも、心のどこかに残っている傷は、まだ完全には消えていないらしい。
私はゆっくりと額へ手を当てた。
頭痛はない。体も昨日よりずっと軽い。
腹痛もほとんど治まっているし、手足の痺れもかなり弱くなっていた。
どうやら、薬がちゃんと効いているらしい。
「体は大丈夫そうかな……」
そう呟いた、その時だった。
コンコン……と、部屋の扉がノックされた。
「アリア?起きてる?」
母の声だった。
私は一瞬だけ夢のことを頭から追い出し、「起きてるよ」と返事をした。
扉が開き、母が部屋へ入ってくる。
「おはよう」
「おはよう……」
声を出してみる。昨日よりはずっと楽だ。
母は私の顔を見るなり、少し安心したように微笑んだ。
「顔色は、昨日よりずっといいわ」
「そう?」
「ええ。昨日は本当に真っ青だったもの」
そう言われてしまうと、少し恥ずかしい。自分では、そこまで酷い顔をしていたつもりはなかったのだが。
母はベッドの横へ腰掛ける。
「体調はどう?」
「だいぶ良くなったと思う」
私は正直に答えた。
「汗は?」
「ほとんど出てない」
昨日は服がびしょ濡れになるほどだった。それを思えば、今はかなり落ち着いている。
「お腹は?」
「まあ……まだ少し痛いけど、昨日ほどじゃない」
「手足の痺れは?」
「残ってる。でも弱くなった」
指を握ったり開いたりしてみる。
まだ違和感はあるが、昨日のような強い痺れではない。
「なら一安心ね」
母は、ほっとしたように息を吐いた。
「でも、まだ完全に治ったわけじゃないんだから、今日も無理はだめよ」
「わかってる」
そう答えながら、私は布団の上で軽く体を動かしてみる。
発汗はかなり治まった。腹痛も軽い。手足の痺れも弱くなっている。
まだ本調子ではないが、少なくとも昨日のように診療所へ担ぎ込まれる状態ではなさそうだ。
母が部屋を出て行った後、私は再びベッドへ腰掛けた。
すると、自然と昨夜の夢を思い出してしまう。
……ノエル。
夢の中で見た彼女の顔。そして──。
『うっさい。こっちくんな』
……あの声。
私は小さく首を振った。
「違う」
ノエルがそんなことを言うはずがない。
彼女は優しい。植物のことを教えてくれた。
野外実習では誰よりも頼りになった。
私が困っている時も、何度も助けてくれた。
だから、あれは夢だ。ただの悪夢だ。
頭では理解している。理解しているのだが――。
「……」
胸の奥が、少しだけざわつく。
本当に、本当に小さな違和感だった。
前世の私は、人を信じて裏切られた。
仲良くなれると思った相手に拒絶され、勇気を出して話しかけた相手に笑われ……気づけば、教室中が敵になっていた。
だからだろうか。
夢の中でノエルの顔から山本美沙の声が聞こえた瞬間の恐怖が、まだ消えていない。
「まさか……ね」
自分でも馬鹿げていると思う。
ノエルがそんな人なわけがない。
それなのに……もしかしたら、本当は私のことを嫌っていて、今はただ我慢しているだけなのかもしれない。
もしくは、単に前世のことを忘れているだけで、いつかまた、あの時と同じように――。
そこまで考えたところで、私は勢いよく頭を振った。
「私、何考えてるんだろ……」
最低だ。
ノエルは何もしていない。何一つ悪くない。
なのに、自分は勝手に疑おうとしている。
それはきっと、ノエルの問題ではなく、私自身の問題だ。
前世で負った傷が、まだ完全に癒えていないだけ。
そう理解していても、胸の奥に残った小さな棘は簡単には消えてくれなかった。
窓の外では、朝の風が木々を揺らしている。
私はその音を聞きながら、小さく息を吐いた。
「早く会いたいな……」
それは、自分でも少し意外な言葉だった。
シルフィンにも。ライドにも。マシュルにも。
そして、ノエルにも。
実際に顔を見れば、この妙な不安も消えてくれる気がした。




