20.侵食する過去
気がつくと、私は学院にいた。
「……え?」
思わず辺りを見回す。
机や椅子が並び、前方には黒板がある。
窓から、明るい夕陽が差し込んでいる。
……見慣れた、いつもの教室だ。
だが――誰もいない。
「シルフィン?ライド?マシュル?」
返事はない。
誰の名前を呼んでも、誰も答えなかった。
ここは何時も通りの教室だ。なのに、ここには私しかいない。
胸の奥に、嫌なざわつきが広がる。
私は席を立ち、廊下へ出た。
だが、そこも同じだった。
人の気配はない……教師も生徒も。
まるで、学院から人だけが消えてしまったようだった。
「何これ……気味悪い……」
私の足音だけが、やけに大きく響く。
窓の外を見ると、鮮やかな夕焼けが空を彩っている。
ということは、今は夕方……放課後のはず。
それなのに、誰の声も聞こえなければ、風の吹く音や鳥の鳴く声もしない。
世界そのものが止まってしまったような、不気味な静けさだった。
私は無意識に歩き出す。
誰かを探すように。助けを求めるように。
けれど、どこにも人はいなかった。
長い廊下を進み、階段を降り、中庭を抜け……誰かいないかと探し回った。
それでも、誰一人見つからない。
不安が、少しずつ膨らんでいく。
と、その時だった。
「あ……」
遠くに人影が見えた。
私は足を止める。
夕陽に照らされた廊下の先に、一人の少女が立っていた。
オレンジ色の髪。小柄な体。
その姿を、見間違えるはずはない。
「……ノエル?」
彼女はこちらに背を向けている。
窓の外を見ているのか、微動だにしない。
私はほっと息を吐いた。
よかった。誰もいないわけじゃなかったんだ……と。
「ノエル!」
私は駆け寄った。
……だが。
「うっさい」
その瞬間、全身の血が凍りついた。
足が止まり、心臓が嫌な音を立てた。
「……え?」
聞き間違いではない。いや、聞き間違いであるはずがない。
その声を、私は知っている。
「こっちくんな」
背筋が震えた。
この声。この話し方。この言葉遣い……全部覚えている。
忘れるはずがない。
山本美沙、前世で私をいじめていたグループの一人。
そして今の言葉も、かつて私が勇気を出して美沙に話しかけた時に返ってきた言葉、そのままだった。
『うっさい。こっちくんな』
何年経とうが忘れられない。
胸の奥に焼き付いている、私を傷つけ、追い込み、殺した言葉の一つだ。
「な、なんで……」
声が震える。
だって、ここにいるのはノエルのはずだ。
ノエルがそんなことを言うはずがない。
彼女は優しい。人見知りではあるが、誰かを傷つけるような子ではない。
……それなのに。
「ノエル……?」
恐る恐る呼ぶ。
すると、少女の肩がぴくりと動いた。
ゆっくりと、本当にゆっくりとこちらへ振り返る。
私は息を呑んだ。
そこにいたのは、確かにノエルだった。
オレンジ色の髪。オレンジ色の瞳。見慣れた顔。
けれど、その表情だけが違った。
……冷たい。
嫌悪に満ちた目。
まるで、汚いものを見るような視線。
それはノエルの顔をしてはいるが、私が前世で何度も向けられた表情そのものだった。
「なに?また来たの?」
口元が歪む。
その声は、紛れもなく山本美沙だった。
「三春、ちょっとは空気読めよ」
一歩、また一歩と少女が近づく。
「あんた、ぶっちゃけ気持ち悪いんだよ。だからこっちくんな」
心臓が激しく脈打つ。
足が動かない。逃げたいのに、体が言うことを聞かない。
「みんなあんたを嫌がってるんだって、わかんないの?」
その瞬間、廊下の奥から足音が聞こえた。
コツ……コツ……と。
振り向くと、そこにはいつの間にか複数の人影が立っていた。
どれも全身がぼやけており、顔は見えない。だが、こちらを見ていることははっきりとわかった。
そして──
クスクス。
影たちは、笑っていた。
聞き覚えのある笑い声が、あちこちから響く。
前世の教室。あの日々。
心の奥に押し込めていたはずの記憶が、少しずつ現実を侵食し始めていた。




