7-6. 流れ、還る
あの川には、確実に『何か』がいた。
それが幽霊なのか、妖怪の類なのかは分からない。川の周囲全体に嫌な気配が漂ってはいたけれど、実際に自分の背後に気配が立つまで、そこに『何か』が潜んでいるとは気づかなかった。
あのあと、足元の懐中電灯を拾い上げて振り返ってみても、暗闇のどこにも怪しい影はなかった。
けれど、あのとき俺の首筋に吹き付けられたのは、間違いなく生々しい吐息の感触だった。吐息があるということは、少なくとも鼻や口が存在するはずだ。俺の首辺りの位置からの息遣い……きっと、人型の何かだったのだと思う。確証はないけれど、そう直感していた。
俺の異変に気づいてすぐ駆けつけてくれたシロさんと荒屋敷さんには、『何か』がいたということ以外、上手く説明できなかった。けれど、二人は周囲を警戒しながら、すぐ川を離れる決断をしてくれた。
車へと戻る道中、幸いにもまたあの『何か』が現れる気配はなかった。移動中の車内でも二人は終始俺を気遣ってくれ、シロさんは助手席ではなく、わざわざ後部座席の俺の隣に座ってくれていた。
情けないけど、俺が心からホッと一息をつけたのは、旅館に戻り、部屋の畳の上に足を降ろしたときだった。
俺はもう一度風呂を借りて湯を浴びた。汗をかいて気持ち悪かった身体をサッパリとさせて、ようやく落ち着きを取り戻してから、二人に改めてあの場での出来事を順を追って説明した。
「なるほど……あそこに『何か』がいるのは確定だな」
シロさんが腕を組み、重々しく頷く。
「すぐに異変に気づいてあげられず、怖い思いをさせてしまいましたね。すみませんでした、惟くん」
「俺も注意が足りなかった、悪かったな」
荒屋敷さんが心底申し訳なさそうに頭を下げる。シロさんにまで真摯に謝罪されると、逆にこちらが恐縮してしまう。
俺だって直前までは「嫌な空気だな」としか思っておらず、背後に具体的な何かが現れるなんて予測していなかった。油断していたと言うと少し違うけれど、警戒を怠っていたのは俺自身も同じだった。
シロさんは真剣な眼差しになり、ポツリと切り出した。
「……啓二さんは、まだ俺たちに言っていないことがあるのかもしれないな」
「言ってない……隠してる、ってことですか?」
「ああ。長年あの場所に住んでいて、ごく至近距離にある錵字川や水源林のことを何も詳しく知らない、なんてことは流石にあり得ないだろう。子供の頃、家のすぐ裏手にあんな秘密基地のような場所があったら、少しは遊びに行ったりするものだ。言い方は悪いが、ここは田舎で、昼間に案内された市街地まで出たとしても、子供が遊べるような娯楽施設なんて大してなさそうだっただろ?」
昼間、車窓から眺めた街の景色を思い返す。確かに、個人商店やスーパーが立ち並ぶだけで、子供が日常的に好むような場所は見当たらなかった。
「男兄弟なら尚更だ。よっぽど幼少期に病弱だったとか特別な理由でもない限り、二人で裏の川へ探検しに行くことくらいは日常茶飯事だったはずだ。小さな子供だけで川遊びをさせる親は今は多くないだろうが、中学生……少なくとも高校生くらいまでは、彼ら兄弟はあの家で暮らしていたんだからな」
シロさんは後ろに手を突いて天井を仰いだ。
「あんなに嫌な気配で満ちているんだ。例えば、昔あそこで不幸な事故があったり、幽霊が出るなんて怪談話が地元で囁かれていたりな。本人が意図して隠しているのか、それとも事件とは関係のない昔話だと思って言わないでいるのか。あるいは、本当に何も知らないのか……」
「啓二さんが大学時代に実家を離れていた時期に、何か起きていた。または、彼が生まれるずっと昔に何かが起きていた、という可能性もありますね」
荒屋敷さんが静かに推測を重ねる。
「そうだな。どっちにしても、はっきりと『何か』の姿が見えない以上、現時点でこちらの手元にある情報があまりにも少なすぎる。明日梨奈が調査に取り掛かってくれると思うが、一応、啓二さん本人にもう一度聞いてみよう」
当初の予定では、まずは現地調査を二、三日行ってみるという手はずになっていた。啓二さんからは「もし数日で原因が分からなくても、費用はいくらかかっても構いませんので、解決まで調査を続けてください」と言われていたらしい。
「……長丁場になるかもしれないな」
ぽつりと呟いたシロさんの言葉が、すっと頭に入ってくる。
壁の時計の針は、すでに深夜の零時を回ろうとしていた。ピンと張り詰めていた緊張がほぐれた途端、どっと激しい疲労が押し寄せて目蓋が重くなり、俺は布団に入ると吸い込まれるようにすぐ深い眠りへと落ちていった。
*
翌朝、目を覚ますと、薄いカーテンの隙間から眩しい日の光が細く差し込んでいた。今日は快晴らしい。
洗面を済ませた俺は、シロさんと荒屋敷さんと共に旅館の食堂で朝食を取った。温かい味噌汁に白米、ハムエッグ、味付け海苔、そして小さな皿にのったカットパイナップルというシンプルなメニューだった。
「今日の予定だが」
箸を動かしながら、シロさんが打ち合わせを始める。
「俺はこれから、啓二さんと一緒に釣りに行ってくるよ。もともと旅行がてら遊びに来たという設定で来ているからな。元々今日は釣りスポットへ行き、夜はみんなでその釣った魚を食べるという段取りにしてあった」
「奥さんも一緒に行くんですか?」
「いや、汐里さんは家に残るそうだ。ご両親が見ているから大丈夫だ、と啓二さんが言っていた」
「……」
「はは、そんな顔をするなよ」
シロさんがからかうように笑う。二階の踊り場から覗いていたご両親の顔を思い出し、「本当に大丈夫なんだろうか」と訝しく思ったのが、どうやらそのまま顔に出てしまっていたらしい。
「釣りは、俺が一人で啓二さんと行ってくる。誠と惟は、錵字川について調査をお願いできるか?」
「えっ、お一人で行かれるんですか?」
荒屋敷さんが思わず声を上げた。
「ああ。昨日の夜の事もあるからな。惟は一旦、加屋津邸と錵字川からは離れていた方がいいだろう。俺は今夜そのままあの家に泊まり込んでみるつもりだ。だから誠は惟についていてやってくれ」
「ですが、お一人での行動は……まだ具体的な正体が分かっていない以上、避けた方が賢明ではないでしょうか」
心配する荒屋敷さんに、シロさんは頼もしげに肩をすくめてみせる。
「あの家では家族四人が何年も生活を送っているんだ。泊まった初日にいきなり死ぬような目に遭うことはまずないさ。それに、ぞろぞろと三人で見張るよりも、俺一人の隙を見せた方が『何か』も油断して、姿を現してくれるかもしれないだろ?」
シロさんは黄色いパイナップルを口に放り込みながら言った。
「啓二さんには『昨日の調査中に惟の具合が悪くなってしまい、今日は旅館で寝込んでいる。だから誠も看病のために側に付き添っている』とでも伝えておこう」
荒屋敷さんがシロさんを加屋津邸まで送り届けて戻ってくるまでの小一時間、俺は旅館の部屋で一人、ぼんやりと過ごしていた。暇つぶしにテレビをつけてみたけれど、画面のニュースはまったく頭に入ってこなかった。
――昨日の、あの首筋の感触は一体何だったんだろう。
言葉にできない恐ろしい気配ではあったけれど、思い返してみれば、殺意のような純粋な悪意とはどこか違っていた気がする。恐ろしかったことには違いないけれど、こちらを害しようとする明確な敵意とは、何か種類が違うような……。
いくら頭を捻って考えてみても、答えは出なかった。
やがて荒屋敷さんが部屋へ戻り、俺たちがまず二人で向かったのは、市の中心部にある大きな図書館だった。
移動する車内の中、助手席の俺はハンドルを握る荒屋敷さんに尋ねてみた。
「そういえば、今日って元々はみんなで釣りに行く予定だったんですよね?」
「ええ。本来は四人で釣りに行くと言って外へ出て、川の周辺を再度調査して、早めに帰宅して奥様の様子を観察する予定でした。ですがシロさんは、啓二さんからもっと情報を聞き出すべきだと判断されたようですね」
「じゃあ、シロさんと啓二さんは二人であの川に行ったんですか?」
「いえ、錵字川ではなく、一旦はきちんと釣りの許可されているメジャーな場所へ行ったようです。昨日惟くんが入浴されている間に、シロさんがスマホで調べておられましたよ。あの大きな川……古芳川にはいくつか有名な釣りスポットがあるそうですから、そこで静かに二人きりで話を聞くと言っていました」
「へぇ……」
到着した市中央図書館は、田舎の街並みには少し珍しい、近未来的なデザインの立派で大きな建物だった。館内は夏休み期間中ということもあってか思っていた以上に利用客が多く、学生たちの勉強スペースや児童書コーナーが賑わっていた。
俺たちは、過去の地元の地方紙に錵字川や今回の件に繋がるような事件事故が載っていないかを探すことになった。全国的なニュースになるような事件であれば、梨奈さんのほうで調べてくれるはずだ。館内の専用端末を使えば、無料で過去の新聞記事データベースを閲覧することができる。俺と荒屋敷さんは手分けし、俺は地方紙、荒屋敷さんは郷土資料コーナーで古い書籍を探すことになった。
専用端末の前に座ると、俺はさっそく検索バーに『錵字川』『水源林』『水難事故』『加屋津』といった単語を打ち込み始めた。
*
「惟くん、どうでしたか? ……おや、その様子だと収穫があったようですね」
昼前に合流すると、俺が手にした数枚のプリント用紙を見て、荒屋敷さんが和やかに微笑んだ。
俺たちはコンビニで昼食の買い出しを済ませ、宿の部屋に戻った。コンビニの弁当やおにぎりをテーブルの片側に広げ、もう片側には図書館でプリントアウトしてきた記事のコピーを並べた。
お茶のペットボトルを開けて喉を潤したあと、俺は地方紙のコピーを一枚手にとった。
「今回の件に、直接関係があるのかは分からないんですが……」
俺が見つけたのは、今から十四年前の地方新聞の片隅に小さく掲載されていた、ある水難事故の記事だった。
『23歳の男性が川で溺死』
7月28日20時50分ごろ、秋田県吉合市丸越の錵字川で「息子が溺れている」と119番通報があった。秋田県警吉合署によると、通報のあった約30分後、同署が下流約7メートルの場所で、右岸に浮いている加屋津浩一さん(23)=同県吉合市丸越=を発見。その場で死亡が確認された。死因は溺死。加屋津さんは同日18時半ごろ、家族に「散歩に行く」と言って家を出たという。その後連絡が取れず、帰りが遅いため、家族が付近を捜索したところ、加屋津さんが川を流れていくのを目撃していた。
ヒットしたキーワードは『錵字川』と『加屋津』だった。
日付が比較的最近の十四年前だったため、詳細な記事本文までデータベースで読むことができた。端末上で本文まで遡れるのは約三十年分で、それ以前の古い記事は見出しと日付しか検索に引っかからない仕組みになっていた。
読める限りの記事に目を通したが、『錵字川』と『加屋津』の組み合わせでヒットしたのはこの記事一件のみ。『水源林』はヒット数ゼロで、『水難事故』は毎年夏になれば県内各地の記事が何件も並んでいたが、今回の場所と直接関係がありそうなものは見つけられなかった。
「これは……啓二さんが仰っていた通りですね。お兄様が亡くなられたときの記事でしょう」
記事のコピーを手に取り、荒屋敷さんが低く呟く。
「しかし、あの川で亡くなられていたとは……」
……俺も、そこが一番気になっていた。
確かに気味の悪い雰囲気を纏った川ではあったけれど、昨日の昼間に見た限り、そこまで流れが急だとも、足がつかないほどの深さがあるようにも見えなかった。
「夜の事故みたいなので、暗闇で足をすべらせて頭でも打ったんですかね……」
そう口にしながらも、胸の奥では単なる不運な事故ではないような不穏な予感が消えなかった。
そして何より――もしこの川でお兄さんが亡くなっているのなら、なぜ啓二さんは「兄は事故で死んだ」とだけ言って、その場所があの錵字川だったという事実を隠していたのだろうか。
コピーを熟読する荒屋敷さんに、俺は疑問を投げかける。
「『散歩に行く』と言って出て行ったお兄さんが、家のすぐそばで亡くなったらショックですよね。だから啓二さんも、わざわざ口に出したくなかったのかな……」
自分の身近な家族に置き換えてみると、背筋が凍る。もし母や祖母が「ちょっと出かけてくるね」と出かけたきり、交通事故にでも遭って二度と帰ってこなかったら……想像もしたくない。
荒屋敷さんは「そうですね……」と小さく相槌を打ち、記事の一文を指でなぞりながら言葉を継いだ。
「ですが惟くん。『息子が溺れている』と通報したということは……第一発見者はご両親ですね。お兄様が二十三歳のとき、弟の啓二さんは二十歳の大学生。大学在学中は実家を離れて一人暮らしをしていたそうですから……もしかすると啓二さんは、この事故の現場には居合わせなかったのかもしれませんね」




