7-5. 流れ、還る
宿の外へ出ると、昼間の明るさは跡形もなく消え去り、暗闇が辺りをすっぽりと包み込んでいた。
空を覆っていた雲は少し晴れつつあるようだったが、だからといって明るい月夜というほどでもない。遮るものがなくなったはずの夜空を見上げても、星の光はやけに少ない気がした。
遠くの闇から、蝉の声なのか何なのかよく分からない虫の声が絶え間なく響いてくる。気温の高さは昼間よりは少し和らいでいるものの、暑いことに変わりはなかった。ねっとりとした蒸し暑い空気が、肌にまとわりついてくる。
旅館の受付には「日付が変わる前には戻ります」と伝え、俺たちは再び荒屋敷さんの車へと乗り込んだ。
昼間に見たあの錵字川のくすんだ緑色の水面を思い出すと、正直ちょっとげんなりしたけれど、シロさんと荒屋敷さんの二人が一緒なのだと思うと、そこまで緊張はせずに済んだ。後部座席へと腰を下ろした俺は自然と前を向いて、助手席と運転席の二人の後ろ姿をぼんやりと眺めた。
「最初、話を聞いたときは、精神的なものの可能性も考えていたんだがな」
「ええ。はっきりとはしていませんが、ネガティブな空気に引き寄せられているだけ、というのともまた違う気がしますね……」
シロさんと荒屋敷さんも、まだ原因が特定できない。誰も、幽霊や妖怪の姿を見ていない。車が夜道を滑るように進む道すがら、車内の話題は『姿の見えない妖怪』のことへと移り変わっていった。
「秋田県、それから九州地方なんかを中心に古くから伝わる妖怪で、『川赤子』というのがいるんだよ」
シロさんが助手席から、前を見据えたまま静かに切り出した。
「主に川辺や水面付近に現れては、本物の赤ん坊のような泣き声を上げて人間を惑わせる怪異だ」
「えっ……それって、汐里さんの言っていたっていう『川から赤ちゃんの声が聞こえる』っていう話と、まったく同じじゃないですか?」
俺は思わず身を乗り出した。
「ああ、状況としてはよく似ていると思うよ。一般的には、川で溺死してしまった赤ん坊の霊が変化したものだと言われているな。泣き声で怪しんで近づいてきた人間を惑わせて、そのまま水底へ誘い込もうとする」
あまりにもあっさりと今回の事件の原因らしき妖怪の正体が見えてきた気がして、俺は胸の内で少し拍子抜けした。
「しかし」と、シロさんがバックミラー越しに俺に視線を向けながら言葉を続けた。
「さっきのは単に、聞いた状況から俺がふと思い出しただけだから、まだ何とも断定はできない。それに、なぜ他の誰でもなく汐里さんなのか、なぜ流産から一年も経った今になって呼び声が聞こえ始めたのか、という疑問が残る」
シロさんは少し首を傾げた。
「まぁ、幽霊や妖怪の類が必ずしも明確な時期を選んで現れるわけでもない。彼女自身が流産という悲しい経験をして心が弱っているからこそ、その悲痛な波長が偶然あちらと合ってしまった、あるいは呼ばれやすくなってしまった、とも十分に考えられるんだが……」
シロさんはそこで一度言葉を切ると、小さく息を吐いた。
「……どうにも、しっくりこないんだよなぁ」
筋が通っているし、十分に説得力があると思うけど。口には出さなかったけれど、俺は内心そう思った。
「水辺で人間を引きずり込もうとする妖怪や幽霊なんてものは、古今東西どこにだっている。さっき部屋で誠が話した通り、穢れや念が溜まりやすい場所だからなぁ……」
シロさんは独り言のように呟いた。
そんな会話を交わしているうちに、車は錵字川の流れる水源林へと到着した。
車を降りると、俺たちはそれぞれ持ってきていた懐中電灯を取り出した。俺以外はスマホを持っている二人だったが、それとは別に懐中電灯を携帯していた。
それぞれの懐中電灯で暗い足元を慎重に照らしながら、鬱蒼とした林の道を進んでいく。風はまったく吹いていなかったが、時折暗闇の奥から虫の声や羽音が響き、昼間とは違って、川のせせらぎもかすかに耳へと届き始めていた。
夜の森に、ザッ、ザッ、と三人の足音だけが重く響く。「そこの根っこ、足元気をつけろよ」などとシロさんが先頭を行き、俺が真ん中、荒屋敷さんが最後尾という順で、縦一列になって進んでいった。
懐中電灯の光に小さな羽虫が寄ってきている。湿気がべたべたと肌にまとわりつき、歩き始めて数分で、衣服の下からじわじわと汗が噴き出し始めた。
やがて少し開けた場所にたどり着き、目の前に錵字川が姿を現した。
周囲があまりにも暗いため水面までははっきりと見えなかったが、曇りの切れ目から漏れる月や星のかすかな光を反射して、川が流れているのは視認できた。懐中電灯の光を向けてみても、暗闇すべてを照らし出すことはできない。とくとくと不気味に流れる黒い水の束が、なんとなく見える程度だった。けれど、その視覚的な不明瞭さが、昼間よりも俺の恐怖心を煽った。
川岸から数メートルの一定の距離を保ったまま立ち止まると、シロさんが「さて……赤ん坊の声はするか?」と静かに切り出した。
俺は神経を集中させ、耳を澄ましてみる。けれど、周囲の虫の音以外に、それらしい声は何も聞こえてこない。
「特には……」
「そのようですね」
荒屋敷さんも周囲を警戒しながら頷く。
「そうだな……。こちらが来たからといって、都合よく現れてくれるってもんでもないだろうしな」
シロさんは再び歩き出し、川岸との距離を一定に保ったまま、川の流れに沿って少しだけ上流の方へと歩いていった。そしてふと足を止め、振り返ると「加屋津家はあっちの方角か」と呟いた。彼の指し示す先は、確かに加屋津邸がある方角だった。
加屋津邸は背後をこの水源林に囲まれるようにして建っているが、この林の遊歩道への入り口はかなり離れた場所にあるため、あそこからここまで来るにはもっと下からぐるっと大回りをしなくてはならない。
俺もつられるようにして、暗闇の向こうにある加屋津邸の方角を見つめた。少しずつ、闇に眼が慣れていく。シロさんがそちらに向けて懐中電灯の光の矢を放つが、背の高い木々の重なりに完全に阻まれていて、家の外観すら確認することはできなかった。
「そんなにすぐ近くってわけでもないよな。果たして、あの家にいる汐里さんの耳に赤ん坊の声が届くもんか……。妖怪が直接彼女の精神を呼んでいるという時点で、物理的な距離なんてものはそれほど問題じゃないのかもしれんがな」
一人で納得したように呟くと、シロさんはさらに川の近くへと足を進めた。荒屋敷さんもそれに続くようにシロさんの方へと歩き出す。俺はやはり、川の近くにはどうしても近寄りたくなかったので、その場に立ち尽くしたまま、手にした懐中電灯で二人の方を照らし、その背中をじっと見つめていた。
二人は昼間の時よりは少しだけ川から距離を置きながら、川面や周囲の木々を懐中電灯で細かく照らし、注意深く様子を窺っている。
数分間、静寂の中で何も起こらない時間が続いた。
真剣な二人の後ろ姿を眺めているうちに、俺の身体から少しだけ張り詰めていた緊張がほどけかけた、その瞬間だった。
――ふっと、右足のふくらはぎのあたりに、何かが柔らかく触れるような奇妙な感覚があった。
ほんの一瞬の出来事だったため、俺は「蚊かな」と思い、右足を軽く振ってそれを払おうとした。
けれど、次の瞬間、またしても全く同じ場所へ、何かがふわっと触れてくる生々しい感触があった。
虫除けスプレーを持ってくれば良かったな……。
そんな後悔が頭の片隅をかすめた、まさにその刹那だった。
――ひゅう。
俺の無防備な首筋のすぐ後ろから、湿った、生暖かい吐息が吹き付けられた。ぞわっ、と一瞬にして全身に鳥肌が立つ。
あ……後ろに、何かいる。
何かが、俺のすぐ真後ろに立っている。首の皮膚に、直接、そいつの息が当たっているのが分かる。ぶわっと全身から嫌な冷や汗が噴き出た。
恐怖のあまり急に喉が詰まる。呼吸することすら緊張して、ひゅ、と喉の奥から自分の情けない息の音が漏れた。焦りと絶望で、心臓が激しくドクドクと暴れ狂う。
身体が金縛りに遭ったように指先一つ動かせなくなる。目玉だけをそっと動かして数メートル先にいるシロさんと荒屋敷さんの姿を追ったが、二人はまだこちらの異変にまったく気づいていない。川の方を向いて調査をしているため、俺からは二人の後ろ姿しか見えなかった。
――声を出していいのか?
――出せるのか?
――動いて逃げるべきか?
――正面に全力で走れば二人がいる、でも、今ここで急に動いて本当に大丈夫なのか――?
必死になって脳を回転させようとするけれど、首筋にねっとりとした息が吹き付けられるたびに、思考のすべてが恐怖によって支配され、完全に停止してしまう。
緊張のあまり喉が完全に閉まりきってしまい、まともな声が出せない。声を絞り出せたとしても、二人の耳まで届かないかもしれない。
そう絶望したときだった。小刻みに震え続けていた体と、大量にかいた汗が災いし、握りしめていた懐中電灯が指先から滑り落ちた。
――ガチャッ!!
足元のゴツゴツとした石に激しく当たり、静かな森に鋭い金属音が鳴り響いた。
「――どうした!?」
その音に反応し、シロさんと荒屋敷さんが同時に勢いよく振り返り、それぞれの懐中電灯の強烈な光の束を、一直線にこちらへと向けた。
「うわ……っ!」
不意に視界を襲った強烈な光の眩しさに耐えかねて、俺は反射的に両手で自分の目を覆い隠した。
――あ。
腕が、動かせた。
そう自覚すると同時に、それまで首筋にべったりとへばりついていた気配は、霧が消えるようにして、さっぱりと消えていた。




