7-4. 流れ、還る
加屋津家に着く直前の車内で、助手席のシロさんが何気ない口調で唐突に切り出した。
「そういえば啓二先輩、ご兄弟はいらっしゃるんですか?」
「えっ?」
不意の質問に、啓二さんは少し驚いたように声を上げる。
「お名前が『啓二』さんでしょう。長男に『二』の数字を使うことはあまり多くはないかなと思いまして。もしかしてお兄さんかお姉さんがいらっしゃるのかな、とかね」
なんてことのない気軽な雑談のように、シロさんは明るい声を響かせる。
「もうご実家を出て、どこか別の場所に住んでいらっしゃるとか?」
すると、啓二さんは言い淀むように視線を泳がせた。バックミラー越しに見えるその顔に、明らかな動揺の色が走る。
「……兄が、いました」
啓二さんは一度、重苦しく言葉を区切った。
「三つ上の兄です。……十四年前、事故で亡くなりました」
「そうだったんですか。すみません、不躾なことを訊ねてしまって」
「いえ、いいんです。ただ……できれば、家でこの話題は出してほしくないんです」
啓二さんは「事前に説明せず、すみません」と、押し殺した小さな声で付け加えた。
「分かりました。心に留めておきます」
シロさんが静かに頷くと、車内はそれきり静かになった。
俺は後部座席でその会話を聞きながら、この流れでご両親のことも聞きたいと思ったが、重苦しい空気の中で自ら口に出すことはできなかった。
再び加屋津邸へと戻り、俺たちは家に上がった。奥さんの汐里さんは、相変わらずリビングのソファーで静かに座っていた。
そのまま夕食をご馳走になることになり、シロさんは啓二さんに強く勧められるがまま、缶ビールを一本、美味そうに空けていた。荒屋敷さんは「私は帰りの車の運転がありますので」と丁寧にお断りをしていた。
その横から、啓二さんが「君はどう? 大学生だし、一杯くらいなら」と俺にもアルコールを勧めてきたので、俺は一瞬「は?」とフリーズしかけた。だが、すぐに自分が今『大学生』という設定だったことを思い出し、「あ、俺は飲めないので……!」と慌てて断りを入れた。
……そうか、依頼人の啓二さんには、大学生って言ってあるんだった。俺が本当は高校生だということは、依頼人は知らない。今回シロさんたちが大学サークル繋がり、俺がシロさんの甥、という設定があるから、ごっちゃになるところだった。気を付けないと……。
夕食は出前のお寿司だった。昼間と同様に、シロさんと荒屋敷さんが即興で作り上げた架空の大学時代の昔話を聞きながら、当たり障りのない会話で食事の時間を終えた。
そうして俺たちは、二十時になる前に加屋津家をあとにした。
結局、啓二さんのご両親は最後まで俺たちの前に姿を現さなかった。俺の耳に聞こえなかっただけかもしれないけれど、二階からは、生活音らしい物音が何一つとしてしなかったように思う。
荒屋敷さんの運転する車に再び揺られ、二十分ほど走って、俺たちは宿へと移動した。
啓二さんからは「ぜひうちに泊まっていってほしい」と言われたらしいが、さすがに大人数が泊まるにはスペース的にも厳しく、男三人で押し寄せるわけにもいかないため、一番近くにある旅館を教えてもらったのだそうだ。今回の調査は一泊以上になる可能性があると最初から聞いていたため、着替えなどの入った荷物は、最初から紺色のSUVの荷台に積んであった。
たどり着いた住宅街の片隅にあるシンプルな旅館は、宿というよりは大きな家のような外観をしていた。小さな看板が掲げられた玄関をくぐると、受付では感じの良い女将さんがにこやかに出迎えてくれた。静かな廊下、古い木造の階段、こぢんまりとした食堂があり、客室は全部で四部屋程度しかない小さな宿らしい。
案内された部屋は、お洒落な和室というほどのしっかりとした造りではなかったが、床には心地よい青畳が敷かれていた。部屋には一般家庭にあるような小さな風呂がついていたので、俺は日中の汗を流したくて、先にシャワーを借りることにした。
風呂から上がり、濡れた髪をタオルで拭きながら部屋に戻ると、シロさんと荒屋敷さんがローテーブルの上でノートパソコンを広げていた。
シロさんに手招きされ、俺は荒屋敷さんの隣へと腰を下ろした。
「さて、今日のおさらいをするぞ」
ノートパソコンの画面に表示されていたのは、この地域の周辺地図だった。
衛星による航空写真で拡大されているその場所は、まさに今俺たちがいる辺りだった。住宅や建物が密集した市街地を分断するように、あの大きな川――古芳川が流れている。地図の左側、西側の一面に面しているのが、川が流れ出している日本海だ。そこから南西の方角へ視線を移していくと、建物の影が減り、緑や茶色のエリアが増えていく。その田畑の中にぽつんと建っているピンが加屋津邸で、地図上でそのすぐ左から下にかけてを、深い緑に囲まれて、その中に流れる細い頼りない線……これが、錵字川か。
「最終的に、錵字川も日本海へと流れ出しているんだな」
シロさんが人差し指で画面の線をなぞりながら呟く。
「ただ、あれじゃあ、水源林としての本来の役割はまったく果たしていなさそうに見えるが」
「役割ですか?」
俺が首を傾げると、「地図をよく見てみろ」と促された。
隣に座る荒屋敷さんが、穏やかな声で解説してくれる。
「水源林とはつまり『水源涵養林』のことで、降った雨や雪を土壌に蓄え、きれいな水を少しずつ川へと送り出す機能を持つ森林のことだそうです。私も林業に詳しいわけではないですが、洪水の緩和や渇水の防止の役割も果たすそうです」
「昔は本当にそうだった、というところだろうな」
シロさんは少し呆れたような口調で言った。
「土砂災害の防止という点でも、あの平坦な土地ではあまり意味がないだろうしな。周囲の田畑はすでに別のルートから水源の確保がされている。もっと古い時代には重宝されていただろうが、今はただ、川のある林として手付かずのまま残っている程度なんだろう」
シロさんは一度言葉を切り、画面の錵字川を見つめた。
「しかし……お世辞にも、きれいな川とは言えなかったな」
言葉には、明らかな不審の色が混じっていた。
「良くないものが溜まっているのは明らかだが……。それにしては、目に見える幽霊や妖怪の類は一匹も姿を現さなかった」
シロさんが、ふと俺の方を見て言った。
「惟。君、今日の調査中、あの川に頑なに近づこうとしなかったな」
「……はい。なんとなく凄く嫌な感じがして、近づきたくなくて。でも俺も何も見えませんでした」
「そうか」
シロさんはうーんと唸り、組んだ両手を頭の後ろに回して大きな背伸びをした。
「奥さんの汐里さんも、精神的に深く参っているんだろうとは思うが……本人に何か変なものが憑いている気配はまったく無かった。本当に何も憑いていないのか、それともこちらが気づかないほど薄い気配なのか、あるいは巧妙に隠れているのか。……ただ、あの家自体には、確実に良くない気が澱んでいた。はっきりとは見えなかったがな」
シロさんの言葉に、荒屋敷さんも「ええ、同感です」と真剣な表情で頷いた。
その言葉を聞いて、俺は「今言うべきだ」と思い立ち、口を開いた。
「あの……ご両親のことなんですけど」
「ん? どうした」
「今日、啓二さんに外を案内してもらうってなったとき、俺が玄関で靴を履いていたら……二階から、二人の老人がじっとこっちを覗いていたんです」
俺の話を聞いた瞬間、シロさんも荒屋敷さんも、驚いたように目を丸くした。
「そういえば……すっかり忘れていたな。啓二さんから事前に『うちの両親は急な来客を好まないから、二階から降りてこないかもしれない』とは聞いていたんだが」
「ええ。私も、汐里さんの状態や家全体の気配に意識を削がれていました。二階に誰かがいるような物音も、まったくしなかったように思います……」
荒屋敷さんも困惑したように眉をひそめる。
俺は、二階の踊り場から老人二人が不気味に顔だけを出していたこと、目が合うと同時に素早く顔が引っ込んだこと、あまりの気味悪さに驚いたが、特に実害があったわけでもないのでその場では言い出せなかったことを、包み隠さず二人に伝えた。
「なるほどねぇ。……単に、珍しい客人をこっそり覗いていただけ、とも言えるか。ちなみに惟、その二人――ちゃんと人間だったか?」
「えっ!?」
シロさんの予期せぬ問いかけに、俺は心臓が跳ねた。
あまりの気味の悪さに圧倒されていたけれど、その可能性はこれっぽっちも考えていなかった。けれど、確かに見えたのは一瞬だけで、しかも薄暗い二階からの少し距離がある視線だった。正直、そう改めて尋ねられると、急に自分の記憶に自信がなくなってくる。
「たぶん……人間、だと……」
俺が歯切れ悪くそう答えると、シロさんはちょっと悪戯っぽく笑った。
「まぁ、明日また啓二さんにさりげなく聞いてみるさ」
「あの家は何度かリフォームをしていると言っていましたね。啓二さんのご実家で、彼が子供の頃から暮らしていた家だそうです。現在のご両親が建てたものだとしても、優に三十年以上は経っているかと」
「ああ。ただ、場所が……あんな住宅街からぽつんと離れた立地にあるということは、それこそもっと昔からの、先祖代々の土地である可能性も高い」
そう言うと、シロさんはノートパソコンでメールフォームを立ち上げた。「一回、梨奈にあの土地の過去を裏から調査してもらうか」と呟き、慣れた手つきで何やらキーボードを叩いて操作し始めた。
「家が原因か、それとも川か……」
シロさんがポツリと呟く。
「……あの錵字川のせいで、汐里さんがおかしくなっている可能性もあるんですか?」
いくら家のすぐ近くを流れているとはいえ、一年前の流産という悲しい出来事と、川に一体どんな関係があるというのだろう。そう思って尋ねると、「まだ何も断定はできませんが……」と荒屋敷さんが静かに答えてくれた。
「水辺というのは、オカルト的な観点から見ると『気が停滞しやすく、湿気が強く籠る場所』でもあるのです。良くないものが溜まりやすい場所、あるいは上流からの『穢れ』や『災い』が流れ着く場所と考えられることも多いんですよ。もし過去に水難死亡事故などがあった場合、死者の念や悪い気が、そのまま残りやすくもなりますからね」
「なるほど……」
確かに、子供の頃に「お盆の時期には川や海に入ってはいけない、引っ張られるから」と、誰かから聞いたことがある気がする。
「もちろん、すべての川がそうであるわけではなく、綺麗で神聖な水が流れる川もありますから、一概には言えませんよ。それに、川にまつわる謂れは他にも色々あります。川という存在自体が、古来より『あの世とこの世の境界』と考えられてきた側面もありますしね」
荒屋敷さんは何かを思いついたように自分のスマホを操作すると、「ほら」とその画面を俺に見せてくれた。
画面に映し出されていたのは、夜の暗い川面に、いくつもの小さな四角いオレンジ色の明かりがゆらゆらと浮かびながら流れていく、どこか幻想的で寂しい光景だった。
「ほら、私たちの地元を流れる旧北神川でも、この時期には震災犠牲者の方々のために灯籠流しを行うでしょう。灯籠流しは、『死者の魂は川を下り、海を越えてあの世へ還っていく』という古くからの考え方に基づいている、と言われています。魂が道に迷ってしまわないよう闇を照らして、無事に還れるように、という祈りが込められているんですよ」
へぇ、と俺は素直に感心した。
ちょうどこの夏の時期に行われる灯籠流しという行事の存在自体は知っていたけれど、そんな深い意味があったなんて、今まで深く考えたこともなかった。
「よし、送信完了」
シロさんが短く呟いた。どうやら梨奈さんへの調査依頼を終えたらしい。部屋の壁に掛けられた古い時計に視線を向け、「じゃあ、ちょっと早いが……そろそろ行くか」とノートパソコンをパタンと閉じた。
時刻はもうすぐ二十二時を回ろうとしているところだった。




