7-3. 流れ、還る
心臓が、まだ耳の奥で少しだけうるさく脈打っていた。
二階の踊り場から見下ろしてきた、あの不気味な双眸。玄関で靴を履こうとしゃがんだまま固まっていた俺は、リビングから出てきた啓二さんに「どうかした?」と声をかけられ、ようやく我に返った。
咄嗟に「何でもないです」と返し、靴を履いて逃げるように玄関から出る。
……あの二階から顔を覗かせていたのは、たぶん啓二さんのご両親だったんだろう。
リビングにいなかったから、同居しているという事実をすっかり忘れていた。今にして思えば、こちらから挨拶くらいした方がよかったのかもしれないが、あちらも顔だけを覗かせてすぐに引っ込んでしまったので、とてもそんな雰囲気ではなかった。
単に愛想がないという以上に、なんだか、肌にじっとりとへばりつくような不気味さを感じる表情だった。
外へ出ると、啓二さんが案内してくれたのは白っぽいグレーのコンパクトカーだった。荒屋敷さんが運転してきた大きな紺色のSUVの横に並んでいると、より一層小さく見える。
四人乗りだったのでシロさんが助手席に収まり、俺と荒屋敷さんが後部座席に並んで座ることになった。身長も高く、筋肉の厚みもある荒屋敷さんは、丁寧な所作で身を縮めて乗り込んでいた。本人は気にした様子もないけれど、どうしたって窮屈そうに見えてしまう。それがなんだかちょっとだけおかしくて、おかげで俺の心臓はいつもの落ち着きを取り戻していった。
田畑を横目に、啓二さんがハンドルを握る。家から少し距離が離れて、エンジン音が安定した頃、彼は進行方向を向いたままぽつりと言った。
「今日は、比較的落ち着いているようです」
主語はなかったけれど、それが奥さんの汐里さんのことを指しているのだとすぐに分かった。
リビングにいる間、確かに彼女は一言も言葉を発することはなかった。けれど、自分のお茶に口を付けていたし、主に啓二さんやシロさんが話を広げるのに合わせて静かに頷いたり、かすかに口角を上げて微笑むような場面もあった。
精神的にひどく弱っている人、と言われたらまさにそんな感じで、何かに憑りつかれているような嫌な気配は特に感じられなかった。
後部座席から、荒屋敷さんが穏やかな声をかける。
「それなら良かったです。普段も、日中はこうして落ち着いていらっしゃるんですか?」
「そうですね……。騒いだり暴れたりするようなことは、基本的にはないですね」
荒屋敷さんの質問に、啓二さんは過去の記憶を思い出すように、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「突然知らない人間を三人も家に招いたら彼女が驚いてしまうだろうなって、正直言うとちょっと不安もあったんです。先週くらいから、俺の大学時代の後輩たちが遊びに来るよ、とは言い聞かせておいたんですけどね」
バックミラー越しに啓二さんの目元を見ると、そこには青っぽい隈がうっすらと刻まれていた。
さっきの家の蛍光灯の下では気づかなかったけれど、陽の光の中で見ると肌も酷く乾いているようで、隠しきれない疲労が滲み出ているのが分かった。
「奥さんとは、大学時代の知り合いというわけではないんですよね? ああ、これは完全なプライベートの質問なので、答えたくなければ聞き流してくださって結構ですよ」
助手席のシロさんが、努めて明るい口調で「ちょっとした世間話みたいなものです」と付け加えた。
「もし汐里さんが何かに憑りつかれている……いわゆる霊障に見舞われているのだとしたら、もともと彼女がそういうものを引き寄せやすい体質なのかどうかは、できる限り事前に知っておきたいので。何か原因のヒントになることがあれば、と。彼女とは昔からの知り合いなんですか?」
「いや……」
啓二さんは少し視線を落とし、記憶をたどるように言った。
「大学を卒業して、俺が秋田に就職して戻ってきたんです。同僚が飲み会で彼女を紹介してくれて、それで知り合いました。汐里は大学がこっちの方で、そのままここで就職したそうで。実家は関東の方なんです。お互いに付き合っているときも色々と話はしましたが、彼女の幼少期や学生時代の話はそれほど……」
「なるほど。じゃあ、昔から幽霊が見えるとか、そういうオカルトめいた話を彼女からされたことも特に?」
「はい、一度も聞いたことはないですね」
車窓から田畑の緑が消え、徐々に密集した住宅街の景色へと移り変わっていくにつれて、ここへ来る道中に見えた大きな川が、住宅街の奥に再び姿を現した。
俺が窓の方に顔を寄せて外を眺めていると、「あれは古芳川というんです」と啓二さんがバックミラー越しに教えてくれた。
「吉合市を東西に大きく分断して流れているんですよ。大きいでしょう、あのまま真っ直ぐ日本海へ流れていくんです。俺の今の職場は家からだと川の手前側なんですけど、汐里は川の向こう側の職場に勤めていて、結婚するまではそっちの方で一人暮らしをしていました」
途中までは俺たちが来た道を辿っていた車だったが、そのまま賑やかな街中へと入っていった。
「一応、秋田市や横手市に次ぐ人口の街なんですよ。面積の広さだけで言えば、県内で一番です」
住宅街を抜けると、個人商店や中規模の商業施設が立ち並ぶ区域に入った。
啓二さんは「俺の職場までは車で三十分くらいです。汐里の職場は、大体一時間くらいかかっていましたかね」と言い、荒屋敷さんが「毎日の通勤となると、けっこうかかりますね」と相槌を打つ。
「ええ、でもこの辺りだと、街中に住んでいない限りはそれくらいの通勤時間は結構普通なんですよ」
車でぐるっと市内を走りながら、啓二さんは汐里さんがまだ元気に外出できていた頃、よく二人で買い物に訪れていた店などを教えてくれた。
やがて車は、もと来たルートを戻り始めた。
市内を分断していた雄大な古芳川から、車はどんどん離れていく。疑問に思った俺は、つい後部座席から尋ねた。
「あれ……? 川は見ないんですか?」
「え?」という戸惑いの表情を浮かべた啓二さんと、バックミラー越しに目が合う。すかさず助手席のシロさんが「あ、すまん惟、伝えていなかったな。例の川は、さっきの古芳川じゃないんだよ」と苦笑交じりにフォローを入れてくれた。
てっきり、あの大きな川が『赤ちゃんの泣き声が聞こえる』川だと思い込んでいたが、どうやら違うらしい。
車は家の付近まで戻ってくると、そのまま左へとハンドルを切った。古芳川とは、ちょうど真反対の方向へと進んでいく。
突き当たりに見えてきたのは、加屋津邸の裏手をぐるりと囲むように生い茂っていた、あの鬱蒼とした林だった。
これは『水源林』というのだと、車内で荒屋敷さんが教えてくれた。農業用水などを確保するため、水源を保つ目的で昔から地域で守られてきた森林、というものらしい。確かに、車窓から見るそれは小さな森といった風情だった。その入り口の未舗装のスペースに車を停めると、俺たちは一斉に車を降りた。
啓二さんに促され、水源林へと足を踏み入れる。
頭上の空が少しずつ曇ってきたせいで蒸し暑かった気温が、木陰に入ったことで幾分か涼しくなったような気がした。
一応、一般に開放されている遊歩道として、土を踏み固めた道のようなものは続いている。だが、砂利や木の根が露出した土の上は、お世辞にも歩きやすいとは言えなかった。今日、サンダルではなくスニーカーを履いてきて本当に良かったと思う。周りがびっしりと高い木々で囲まれているせいか、昼間だというのに視界は少し薄暗い。すれ違うような他の利用客の姿は、一人もなかった。
「これが、錵字川です」
水源林の中を数分程度歩いた先に、その川はひっそりと流れていた。
川の水は決して澄んでいるとは言えなかった。水面がどんよりとくすんだ深い緑色に見えるのは、周囲の岩肌や木の幹に、びっしりと苔が生い茂っているせいだろうか。高低差がほとんどない平坦な場所を流れており、そこまで川幅は広くない。人間が三人横に寝転んだら、塞がってしまいそうな幅だ。
「この通り、涼しい場所ではあるんですが、特に景色を楽しめるような綺麗な場所でもないので、普段から人は全く立ち入らないんです」
水底が濁って見えないため、正確な深さは分からない。けれど、橋があるわけでもないその川は、それほど深くはないのだろうか。水面の手前を見る限り、流れは酷くゆっくりに見えた。
――あまり、近寄りたくない。
嫌な汗をかいているのは、この周囲の蒸し暑い湿気のせいだと思いたかった。皮膚にぴったりとへばりつくTシャツの感触が、気持ち悪い。
この川が綺麗だなんて、到底思えなかった。周りに幽霊や妖怪の姿は見えないというのに、言葉ではどうしても上手く言い表せないような、嫌な感じが五感を刺す。
川岸から五、六メートルほど離れた位置で俺が完全に立ち往生している間に、シロさんと荒屋敷さんはためらいなく川のすぐ近くへと歩み寄っていった。
シロさんが水面を観察しながら、「この川は、家の窓からははっきりとは見えないですよね」と、こちらまで聞こえるように声を上げた。
「そうですね」
その返事が、すぐ、俺の耳の真後ろから聞こえた
「っ……!?」
思わずビクッと肩を大きく跳ねさせて振り返る。いつの間にか、啓二さんが俺のすぐ後ろに無音で立っていたことに全く気づかなかった。
啓二さんは俺の反応を気にする風もなく、林の奥を見つめながら言った。
「二階の寝室の窓からは、この水源林が見えるんです。この川の水面までがはっきり見えるわけではないんですが、汐里はちょうどこの川が流れている方角を、じっと見つめていました」
「なるほど……」
シロさんが川岸で顎に手をあてる。荒屋敷さんも水面を覗き込むように川を観察していたが、「足元が滑りやすいので、あまり近づかないほうがいいですね」と言って、すぐに一歩後ろへと下がった。そのまま二人で小声で何かを真剣に話し合っていたが、川のせせらぎや虫の声にかき消されて、ここからでは内容までは聞き取れなかった。
「……近くで見なくていいんですか?」
すぐ隣から、啓二さんが俺に話しかけてきた。その丸い顔が、じっと俺の横顔を観察している。
「あ、はい。……俺は、ただの手伝いなので」
咄嗟にそう言って、川から視線を逸らした。
嘘ではない。俺はただのバイトだし、と心の中で言い訳をする。
「そうですか……」
啓二さんは不可解そうに、少しだけ眉をひそめた。
……わざわざシロさんの『甥』としてついてきたくらいだから、もしかして俺のことも霊能者か何かだと思っていたんだろうか。
期待を裏切ってしまったような、そんな申し訳なさと肩身の狭さを感じていると、少ししてシロさんと荒屋敷さんが川岸から戻ってきてくれた。
水源林を出て、帰りの車内へと戻る。
移動を始めた車の中で、シロさんと荒屋敷さんは依頼人に向けて現状の報告を入れた。
「あの錵字川自体、あまり良い気配がしない場所なのは確かですが……。今の時点では、はっきりと何が原因とは言えませんね」
シロさんの言葉を引き継ぎ、荒屋敷さんも前を向いたまま言った。
「あの川自体に何か過去の曰くがあるのか、それともあの場所自体の磁場が悪いのか。今の時点ではまだ何とも言えません。今日の夜、皆さんが寝静まった頃に、改めて見に来てみます」
啓二さんはバックミラー越しに小さく頷き、「……分かりました」と静かに答えた。
時刻はもうすぐ十八時になろうとしているのに、夏の日はまだ高く、太陽は分厚い曇り空の向こう側で、ぼんやりと世界を白く照らし続けていた。




