7-2. 流れ、還る
道中、俺は気になっていたことを聞いた。
「奥さんは、『川から赤ちゃんの泣き声がする』って言ってるんですよね。……赤ちゃんの、幽霊がいるかもしれないってことですか?」
「いや、その可能性は低いんじゃないかと思う。川から人を呼ぶもの、妖怪の類が噛んでいる可能性は無きにしも非ずだが……話を聞いただけじゃ、まだ何とも断定できないな」
「そうですか。……なんで、流産しちゃったんですか?」
親しい間柄の人間ではないとはいえ、あまりにも辛い出来事だと理解はしている。俺が問いかけた瞬間、車内に言いようのない気まずい空気が流れた気がした。
「……家の階段から、落ちてしまったそうだ。お腹がもうだいぶ大きくなっていた時期だったから、足元が見えずに階段を踏み外してしまったんだろうと。そのとき、啓二さんは仕事で家にいなかったそうだ」
「……奥さんは怪我しなかったんですか?」
「幸い打ち身程度で済んだと思ったそうだ。だが、そのあとに出血が起きて、何度か病院で検査を受けたところ……お腹の中の子供が流産していた、という事実が判明したらしい」
シロさんの言葉を引き継ぐように、荒屋敷さんが静かなトーンで補足した。
「外傷が大したことなかったため、お二人とも『きっと無事だろう』と一度はホッとしてしまったことも、その後の絶望をより大きくしてしまった要因のようです」
「そう、なんですか……」
車内は、しんみりとした重苦しい空気に包まれた。
話を聞く限り、奥さんの様子がおかしいのは、幽霊や妖怪のせいではなく、単純に心に深い傷を負って、いわゆる病んでいる状態になってしまっただけなんじゃないかな……と、俺は素人ながらに思った。
沈み込んだ空気を変えるように、シロさんが「そろそろか?」と運転席の荒屋敷さんに尋ねた。
「ええ。あの先の信号の角を曲がって、もう少し進んだ先ですね」
高速道路を降りると、荒屋敷さんは運転席の横にスマホを固定し、ナビの地図を表示させていた。
地図が示す通りに走っていくと、のどかな田畑の中、進行方向の左手側に大きな川がゆったりと流れているのが見えた。しかし徐々に表れた住宅街によって川が見えなくなった。
あの大きな川が例の、奥さんが言っていた川なのかな。住宅街の向こうだし、それなりに距離があるように思えたけど。
さらに進んでいくと、しばらくして次第に民家がまばらになり、車窓の景色にまた田畑の面積が増え始めた。
シロさんがスマホを耳に当てて電話をかける。依頼人に「もうすぐ着く」と連絡を入れているようだった。
あまり舗装されていないガタガタとした道路沿いに、防風林のような深い林のシルエットが見えてきたところで、シロさんが通話を終え、俺たちを振り返る。
「そうだ。今回俺は依頼人を『啓二先輩』と呼ぶ。誠もだな。あっちは逆に、俺たちのことを苗字で呼び捨てにする予定だ」
バックミラー越しに、シロさんと目が合う。
大学のサークル仲間という設定。そういえば、だから二人とも俺と同じようにTシャツにデニムのような楽な格好なのか。シロさんはともかく、荒屋敷さんは依頼者の元に行くにはいつもよりラフな服装だと思ったが、暑いからかと勝手に結論づけていた。
「惟、君は俺の甥って設定だから『加屋津さん』でも『啓二さん』でも、自分の呼びやすい方で呼んでいいぞ」
「分かりました」
返事をしたときちょうど、ぽつんと建つ二階建ての一軒家が見えてきた。その家の前に、依頼人が一人で立って待っていた。
加屋津邸は、一般的な住宅街からはかなり離れた場所に孤立して建っていた。一番近い隣の民家でも、五百メートルは離れているだろう。周囲には田畑が多く、家の背後はあの防風林のような鬱蒼とした森林に囲まれているように見える。あの木々の向こう側には、きっと日本海が広がっているはずだ。
車のドアを開け、それにしても、海のすぐ目の前にこんなふうに林があるなんて、なんだか不思議な地形だなと考えながら、アスファルトに足を下ろした。
「遠いところ、わざわざありがとうございます」
主にシロさんと荒屋敷さんに向けて声をかけてきた依頼人は、ひどく硬い表情を浮かべていた。
「いえいえ、先輩の頼みとあらばどこへでも来ますよ。なぁ、誠」
「はい。お久しぶりです、啓二先輩」
周囲には依頼人以外、誰もいない。けれど、もうすでに設定通りの先輩呼びを始めた二人を見て、依頼人――啓二さんはハッとした顔になり、その後すぐ、安堵したようにふっと表情を和らげた。
「こちらが、甥の惟です」
「あ、藤見惟です。よろしくお願いします」
シロさんに紹介され、俺は啓二さんに向けて軽く頭を下げた。
「加屋津啓二です。こちらこそ、よろしく」
同じように頭を下げて返してくれた啓二さんだったが、彼はその間、じっとこちらを値踏みするように見ていた。頭の先から足元まで、何かを探るようにじっくりと観察されたような気がして、俺は少しばかり居心地の悪さを感じた。
そして、ふと、目の前に立つ彼の肩越しに視線を泳がせたときだ。
加屋津邸の一階の窓。そのカーテンの隙間がわずかに開き、そこから、長い髪の女性がじっとこちらを覗き込んでいるのに気がついた。
おそらく、奥さんの汐里さんだ。
――まるで、血の通っていない蝋人形のようだった。
ひどく青白い肌に、べったりとした長い黒髪。じっと、一度も瞬きをせずにこちらを凝視している彼女の眼差しに驚き、俺は思わず後ずさりしそうになるのを必死でこらえた。
シロさんが啓二さんに明るく声をかけた瞬間の隙を突いて、俺はそっと窓から目を逸らす。
三人が和やかに談笑している声を聞きながら、たぶん、シロさんも荒屋敷さんも彼女には気づいていて、あえて気づかないふりをしているんだろうなと、冷や汗をかきながら思った。
家の築年数自体はかなり古いようだったが、何度かリフォームを重ねているらしく、外観も内装もそこまで古い感じはしなかった。中は白い壁と明るい色の木目の床が広がっていて、本来なら清潔感のある空間のはずだ。実際に掃除が行き届いているように見える。
けれど、一歩足を踏み入れた瞬間から、どことなく陰鬱で重い空気が家全体に澱んでいるような気がした。
――でも、人間でないものはいない。
警戒して周囲を探ったが、今のところ、目に見える範囲におかしな影や怪異の気配はなかった。
リビングに通され、改めて奥さんを紹介された。
「妻の汐里です」
紹介された彼女は、俺たちに向かって小さく、音もなく会釈した。
シロさんたちが「大学のサークルで知り合った、後輩です」と挨拶をしたときも、シロさんが俺を「甥です」と紹介したときも、汐里さんは微笑むことも、言葉を一つ発することもなかった。
けれど、先ほど家の外からこちらを覗き込んでいた時のような、ぞっとするような蝋人形じみた不気味さは薄れていた。確かに肌の色は白いが、幽霊みたいというほどではない。よく見れば髪も黒髪ではなく、ほんの少し茶色がかっていて、肩につく程度の長さだ。
ただ、明るい照明の下で見る汐里さんは、どこか透き通るような透明感のある綺麗な人で、その整った造作のせいか、余計に感情のないお人形っぽいイメージを抱かせた。
汐里さんが静かにお茶を用意してくれて、そのままリビングで腰を下ろすことになった。
よく考えたら、見ず知らずの大人の集まりに高校生の俺が一人混ざってるなんて、すごく場違いだよな……。
今更ながらにこっそりと緊張し始めていた俺だったが、シロさんと荒屋敷さんはさすが場数を踏んでいるプロだった。終始落ち着いた様子で、啓二さんと当たり障りのない昔話を捏造しながら、場を盛り上げていた。
全員のお茶が空になった頃、シロさんがおもむろに口を開いた。
「啓二先輩。俺たち、こっちの方の地域に来るのは初めてなんですよ。けっこう海に近いんですね」
言いながら立ち上がり、「あっちの方かな。途中大きい川が見えて、たぶんあのまま日本海の方に続いてるんですよね?」と、床まであるリビングの大きな窓の前に立ち、外を指さす。
「ああ、そうだな。……そうだ、せっかくだし、少し周りを案内するよ」
啓二さんもそれに同調するように立ち上がった。荒屋敷さんも静かに腰を上げ、俺も慌てて立ち上がる。
シロさんと荒屋敷さんに続いてリビングを出ようとしたとき、啓二さんが「ちょっとその辺見てくるから」と、ソファーに座る汐里さんに短く声をかけているのが聞こえた。
シロさんが「啓二先輩の車に乗せてもらったほうがいいよな」と荒屋敷さんと話しながら靴を履き、玄関の扉を開けて外へ出る。
俺は玄関にしゃがみ込み、自分の靴の踵を合わせようとした。
そのとき――不意に、後頭部にねっとりとした視線を感じた。
何気なく、後ろを振り返る。
リビングへと続く扉のある廊下の方ではない。玄関を入ってすぐ左側にある、二階へと続く階段。
その薄暗い上の踊り場から、老人が二人、顔だけを出して、こちらを見下ろしていた。
それぞれ、雪のように真っ白な白髪。無数の皺と濃いシミだらけの顔に、真一文字に固く結ばれた口。くぼんだ眼窩の奥に、ビー玉のような小さな眼球が二つ並んでいる。
どちらもピクリとも身じろぎせず、ただじっと、無表情にこちらを観察していた。




