7-1. 流れ、還る
グラウンドを見なくても、外がうだるような暑さであると分かる。わずかに開けられた窓からお湯のような空気が入り込み、大声を張り上げる運動部の喧騒が響いていた。
一学期の期末考査を終えたばかりの教室で行われているのは、二者面談だった。
机を二つ向かい合わせにしたその向こう側に、担任が座っている。担任は俺の成績表に目を落としながら、機械的に言葉を発した。
「――で、藤見は一応、大学進学を希望しているんだな」
「はい。……具体的にどこ、とはまだ決めてないんですけど」
実際、何も考えてない。顔を上げた担任と、気まずく視線が交差する。
「そうだろうな。特にこれが学びたいっていう具体的な分野があるわけでもないんだろ?」
「はい……」
担任は俺を責めているわけではない。それでもなんとなく居心地悪い気がして、俺は小さく頷いた。
本当に大学で勉強がしたいのかと聞かれたら、正直よく分からない。かと言って、高校を卒業してすぐに社会に出て働くイメージも持てなかった。
額の生え際が後退し始めている男の担任は、年齢的にそこそこのベテランで、卓球部の顧問をしている。熱血教師というほどではないけれど、かといって生徒に無関心というわけでもない。俺にとっては程良い距離感の教師だった。
「高校生の時点で将来はこうなりたいって明確なビジョンを持ってる奴の方が珍しいとは思うよ。ただな、もう二年の夏だ。せめて文系か理系かくらいは早く絞って、一度親御さんとしっかり話をしてみなさい」
担任は広げていた成績表を机の上でトントンとまとめ、面談の終わりを告げるように片付け始めた。
「あっという間に受験の日がくるぞ。本気で大学に行きたいなら、もうちょっと頑張らないとな」
「……はい」
「とはいえ、成績自体は右肩上がりだからな。この調子で頑張れよ」
一人二十分程度と決められた二者面談は、それで終了した。一礼して廊下に出ると、部活の最中に抜けてきたのだろう、ジャージ姿のクラスメイトが待合用に置かれた椅子に座っていた。俺と入れ違いに、彼は面倒臭そうな表情を隠さずに教室へと入っていった。
*
その週が終わると、高校は本格的な夏休みへと突入した。
東北でも、30度を超える真夏日が続いている。冷房が十分に効いた車内から眺める外の景色は、陽炎が立ち上っていて見るからに暑そうだった。
進路のことについては、結局母にも祖母にも切り出せないまま、俺は車のシートに体を揺られていた。荒屋敷さんが運転する紺色のSUVだ。
助手席に座るシロさんと、ハンドルを握る荒屋敷さんの後ろ姿を後部座席からぼんやりと眺めながら、俺はふと思ったことを口にした。
「あの、荒屋敷さんって、梅高を卒業したあとはどこかに進学したんですか?」
「私ですか? ええ、私は大学へ進学しましたよ」
「大学受験って大変でしたか?」
訊ねてから、荒屋敷さんなら頭が良いからそんなに苦労しなかったかもな、と思った。
「そうですね……部活を引退したあとは、本当に文字通り毎日勉強漬けでしたよ。惟くんはもう進路を決めたんですか?」
「あー、いえ、まだ迷ってて……」
何も決まっていないことから逃げるように視線を泳がせると、バックミラー越しにシロさんと目が合った。
「俺も大学進学だったよ」
「知ってますよ。シロさんは東京の大学に行ったって、前に言ってたじゃないですか」
シロさんは「お、よく覚えてたな」と口角を上げた。
「高二だもんな、そろそろ進路を固める時期ってとこか。まぁ、大学は行けるなら行っておいたほうがいいんじゃないかと思うよ」
シロさんの口からそんなごく一般的な意見が出たことが、俺には少し意外だった。
「てっきり、高校を出たらこのまま相談所で働けとか言われるかと思いました」
「はは、君がそうしたいならダメとは言わないが。……学生生活なんてものは、あとからやろうと思ってもできないからな。限られた期間でしか経験できないことは、やっておいて損はない」
荒屋敷さんが「そうですね」と相槌を打つ。
「行きたくても行けない人がいる、なんてお仕着せがましい価値観を押し付けるつもりはないが、恵まれた環境にいる間はその恩恵を最大限に受け取っておいてもバチは当たらないと思うぞ」
「そうですか……」
恵まれた環境にいる間は、か……。
母と祖母は昔から、成績が悪くてもうるさく言ってこなかった。けれど、やっぱりごく一般的な意見として、大学進学を望んでいるはずだ。担任の言う通り、そろそろ……いや、ちょっと遅いくらいだろうか。具体的な目標を決めなければいけないのだろう。
「そうだ、惟。これから先、君はまた大学生ってことにしてあるからな。あと、俺の甥っ子って設定だ」
「えっ?」
大学生という偽りの立場に頷こうとした矢先、突拍子もない言葉が続いて俺は声を裏返した。
「甥っ子って、どういうことですか?」
今日、俺たちが向かっているのはバイト先である『異浦なんでも相談所』に舞い込んだ新しい依頼のためだった。
『加屋津』と名乗る男性からの相談内容は、『様子がおかしい妻の除霊をしてほしい』というものだ。
俺は学校があったから直接話をしてはいないが、シロさんと荒屋敷さんの二人は夏休みに入る前、依頼人の加屋津さんと電話やパソコンの画面越しに、何度かやり取りを重ねている。
「奥さんを一人で家に置いていくのが心配で、宮城まで足を運ぶことはどうしてもできない、とのことだった。片道三時間半、往復で約七時間もかかる距離だからな」
加屋津さんは秋田県の日本海側の地域に住んでいる。
そのため、シロさんと荒屋敷さんはリモートで顔合わせ済みで、俺の同行についても事前に了承を得ているのだという。
「奥さんが塞ぎ込むようになってからの経緯については一通り聞いた。ただ加屋津さんは今自宅で仕事をしているらしくてな。リモート越しにも奥さんの気配を気にしているようで、あまり突っ込んだ詳しい話までは聞けなかったんだ」
この調査に出発する前に、シロさんが自分のスマホを操作し、リモート面談の録画映像を俺に見せてくれた。
小さな画面の中に映る加屋津さんは、荒屋敷さんよりも少しだけ年上に見えた。だが、その表情は疲労と焦り、そして強い緊張でガチガチに硬くなっていた。太っているわけではなさそうなのに輪郭は丸く、八の字に下がった眉が、彼の人の良さと現在の苦労を物語っているようだった。
「加屋津さんの家族構成は、依頼人である加屋津啓二さん三十四歳。四年前に結婚した奥さんの汐里さんが、今年で三十になる。啓二さんのご両親はどちらもご健在で、同居しているそうだ」
奥さんの様子が決定的におかしくなったのは、ここ数か月ほどのことらしい。
もともと妊娠が分かってからは仕事を辞めて家にいたそうだが、約一年前の流産をきっかけに、ずっと深く落ち込んだ様子で引きこもりがちになっていた。啓二さんは「精神的なショックのせいだからしょうがない」と、なるべく彼女を刺激しないように寄り添って接してきたつもりだった。仕事も極力家に持ち込むようにして、ずっと在宅で作業を続けていた。だが、ここ数ヶ月ほどで彼女の言動は急激に変化し始めたのだという。
いつもぼーっとして、自宅の裏手にある川のほうを眺めている。顔色が悪く、気づけば毎晩、夜中じゅう起きて川を凝視していることもあるらしい。さらに家に引きこもっているかと思えば、先月あたりから「川から赤ちゃんの泣き声がする」と言い出し、一人でふらふらと川へ入ろうとしたこともあったそうだ。
「精神的なものだろうと疑って病院や専門のカウンセリングにも行ったらしいが、結局原因は分からず、状態も改善しなかったそうだ」
だから、うちへ相談してきた。そこまでの経緯は理解できるし、調査で大学生のフリをすることは今までもあったが、甥っ子という血縁関係をつくる理由はよく分からなかった。
助手席に深く寄りかかるシロさんの横で、運転席の荒屋敷さんが補足するようにバックミラーに視線を向ける。
「奥様本人やご両親には『心霊現象として相談した』とはどうしても言えなかったそうでして、表面上は個人的な友人として、家に遊びに来てほしいとのことでした」
「俺は加屋津さんの『大学時代の後輩』で、誠はさらにその一つ下の後輩。大学のサークル仲間が、旅行がてら遊びに来たって体だな。奥さんの調子が良くないのはご両親も分かっているから、少しでも気が紛れるようにと、数日間友達を呼び寄せたことにしてあるそうだ」
「そうなんですか……」
だから年の少し離れた俺は、シロさんの『甥』という設定になるのか。
じゃあ、今回の現場では「調査」とか「幽霊」なんて余計な言葉は使わないように気をつけなきゃいけないし、オカルトめいた話題も全面禁止ということか。(まぁ今までも大っぴらに口に出したことはないけれど)。
しかし、今更になってふと疑問に思う。メンバーが男ばかりだ。
「……でも、それなら女性の和華子さんあたりが一緒の方が良かったんじゃないですか?」
俺みたいな無愛想な高校生がついていくよりも、奥さんに対して気の利いたフォローをしてくれそうな気がする。
荒屋敷さんはほんの少し痛ましそうな表情を浮かべて答えた。
「それが、依頼人からの強いご要望で女性はNGだったんですよ。奥様は流産されて以来、若い女性……これから子供を産む可能性のある世代の女性に対して、どうしても良い顔をしないそうなのです。当然、すでにお子さんのいらっしゃる女性に対しても同様ですね」
「あ……」
なるほど。確かに梨奈さんと佐久間さんは二十代の女性だし、和華子さんには一人息子――健太郎くんがいる。
「でも子供がいないってことにしておけば、バレないんじゃないですか? 俺だって高校生なのに大学生のフリをするわけですし」
「そうだな、和華子なら上手く取り繕ってくれるだろうが……。意外とそういうものは、纏う雰囲気やふとした仕草から感覚的に分かってしまうものなんだよ。心が敏感になっているときなら、なおさらな」
シロさんの言葉に、俺は「へぇ……」と小さく吐き出すことしかできなかった。
紺色のSUVは目的地である秋田県に向けて、高速道路を北上していった。
途中、休憩のためにサービスエリアに降り立つと、アスファルトから立ち上る熱気が容赦なく体を包み込む。曇り始めた空の向こうからじりじりと肌を焦がすような強い紫外線を感じて、俺たちは急ぎ足で冷房の効いた車内へと逃げ戻った。
順調に行けば、午後二時には依頼人の待つ家へと到着する予定だ。




