7-7. 流れ、還る
十四年前に兄である浩一さんが亡くなったとき、第一発見者はご両親だった。
その指摘を聞いた瞬間、俺の脳裏に、あの階段の薄暗い踊り場からこちらを見下ろしていた無表情な二つの顔が蘇り、背筋がすっと寒くなった。
浩一さんが亡くなったこと自体が、今回の件――汐里さんの様子がおかしくなったこと、そしてあの川と加屋津邸に淀む嫌な空気と、直接関係しているのかはまだ分からない。十四年前なら今とは周囲の状況も違っていたかもしれないし、当時はただの悲惨な事故だったという可能性だってある。けれど、どうしても完全な無関係だとは思えなかった。
コンビニで買ってきたおにぎりを頬張りながら、「荒屋敷さんの方は何か見つけましたか?」と尋ねてみた。
すると荒屋敷さんは透明なファイルから、数枚の資料のコピーを取り出してテーブルの上に並べてくれた。
「私のほうも、これといった明確な決定打があったわけではないのですが……気になるものをいくつか見つけてきましたよ」
そう言って説明されたのは、図書館の郷土資料室で見つけたという古い地図のコピーだった。
錵字川周辺の比較的最近――数年前の現代の地図と、約十年前の地図。そしてさらに古い、約七十年前の白黒の古い地図だった。
「気になるのは、この七十年前の地図です。現代の地図と見比べてもらうと……ほら、ここです。名前が載っていないんですよ」
荒屋敷さんの指し示す先を見ると、水源林の深い緑の中を、細い一本の線が今と変わらず日本海へ向かって流れている。しかし、荒屋敷さんの言う通り、そこには『錵字川』という名称の記載がどこにもなかった。
「川自体は七十年前から存在していたんですね。……当時はまだ名前がついていなかったんでしょうか?」
「加屋津家も水源林も、約七十年前の段階でちゃんと存在していますね。敷地の規模こそ今と少しだけ違いますが、配置はほぼ現在と変わりません。ですが、名前すら登録されていないというのは、少々考えづらいのですが……」
図書館で地名の由来なども調べてくれたらしいのだが、『錵字川』という名前が資料に登場し始めるのは、約三十年前あたりからだったという。名前の由来についての記述も一切見つけられず、かろうじて七十年前当時は、まだあの水源林が『水源林』としての本来の機能を果たしていそうだったことが、古い地図から読み取れる程度だった。
「大きな川ではないので昔は正式な名前がついておらず、地元の人々の間で適当な俗称で呼ばれていたものが、のちに公式名として登録されたという可能性もあります。ただ、念のため今回はこの川の成り立ちや由来を詳しく知っておいた方が良いでしょう」
午後も引き続き詳しく調べてみましょう、と荒屋敷さんは言った。そして、他にも持ってきた数枚の資料を見せてくれた。
「あ、これ。昨日シロさんが言っていたやつですよね」
受け取ったプリントの中に『川赤子』という太文字を見つけて尋ねると、荒屋敷さんは穏やかに頷いた。
「そうです。ごく短くまとめられているものしかコピーしてきませんでしたが、その『川赤子』の他にも、秋田県内で語り継がれている伝承や民話ですね。川や日本海などの水に関するものや、田畑・農業にまつわるものをいくつかピックアップしてきました」
どこの地方であっても、古い昔話に幽霊や妖怪の類は付き物のようだった。『川赤子』の他にも、田畑の豊作や村の繁栄と引き換えに人間の生贄を要求するような話や、狐や狸といった動物が化けて人間に悪さをする民話が並んでいる。
「秋田の『河童』は、女性に化けて人間のハラワタを取って食う……へぇ、なんか怖いですね。えっと、こっちの『八郎太郎』っていうのは……『三湖伝説』?」
「青森県、岩手県、秋田県の東北三県にまたがる有名な伝説ですよ。八郎太郎という名の若者がマタギとして暮らしていたのですが、ある日掟を破り、仲間の分の魚まで自分一人で全て食べてしまった。すると激しい喉の渇きに襲われ、川の水を飲み続けた結果、いつしか竜へと変化してしまったというお話です」
今回の加屋津家の事件とは直接関係はないだろうけれど、同じ水にまつわる有名な説話ということで、念のためコピーしてきてくれたらしい。
「八郎太郎はその後、修行僧と激しい戦いを繰り広げ、湖を追われたりもします。また、自分と同じように龍に姿を変えられた娘がいて、彼女が住む湖へと通って共に暮らすようになったりするんですよ」
「へぇ……竜に変身して終わり、じゃないんですね」
「ええ。こうした説話を学術的には『変身譚』や『異類婚姻譚』と呼びます。前者は文字通り、人間が別の姿に変身するお話のこと。後者は、簡単に言えば人間と人間以外の異形が結婚するお話ですね。今回は二人とも龍へと姿を変えましたが、元は生身の人間ですので、『異類婚姻譚』の一種と言っても差し支えないでしょう」
――『異類婚姻譚』。
その単語を聞いた瞬間、俺の脳裏に、あの汐里さんの人形のような綺麗な顔が不意に思い浮かんだ。
彼女はれっきとした生身の人間だし、夫である啓二さんのほうだって間違いなく人間なのに。……強いて言うなら、あの二階の踊り場から覗いていたご両親の顔の方が、よっぽど妖怪じみていた気がする。
荒屋敷さんは「三県にまたがる伝説ですので、語り継がれた地域によってストーリーの詳細が多少異なる場合もありますからね」と補足し、まだ手をつけていなかったお弁当に箸を伸ばした。
「それに、すべての伝承がこのように綺麗に文字として資料に残っているわけではありません。人から人へ、口頭で語り継がれていくうちにいつしか廃れてしまうものや、あるいは限られた人間たちの間だけで密かに継承されていくものもありますから」
「なるほど……。じゃあ錵字川に関連する話があっても、もしかしたら文字に残っていないことや、地元の人たちの間だけで伝わっているかもしれないってことですね」
「その可能性も十分に考えられますね」
手元の資料を一通り確認し終えた俺と荒屋敷さんは、ようやく本格的に昼食を取り始めた。
俺たちが午前中に集めた情報は、荒屋敷さんが簡単にまとめてシロさんへ報告を入れてくれた。シロさんからの返信はなかったが、昼食を食べ終わる頃には『既読』の文字がついていた。
午前中だけでは図書館の資料を調べ切れなかったので、午後も引き続き出かけることにした。俺は図書館へ、荒屋敷さんは水源林や錵字川について市役所で聞いてきてくれる予定だ。
「調査は当初の二、三日より、少し長引くかもしれないですね。ご家族にご連絡をしておいた方が良いでしょう。もし一度ご自宅へ戻られるのであれば仰ってくださいね、車でお送りしますから」
「はい。でも、大丈夫だと思います」
元々、母には「シロさんと旅行に行ってくる」と伝えて家を出ている。二、三日の予定だけれど、向こうで盛り上がったら少し延びるかも、とも言ってある。シロさんが我が家に寄った際にもそう話を合わせてくれていたので、連絡を入れておきさえすれば不思議に思うこともないはずだ。
*
午後の調査の結果から言えば、正直言って俺の収穫はゼロだった。
「すみません荒屋敷さん、これといった記事が見つからなくて……」
「いえいえ、気になさらないでください。必ず情報があると決まっていたわけではありませんからね」
水難事故関連の記事に絞り込み、図書館の司書さんに頼んでわざわざ書庫から古い新聞の縮刷版を何冊も出してもらったのだ。司書さんに「何の研究ですか?」と少し不審がられながらも、ひたすら古い紙面を目で追い続けたのだが、結局『錵字川』や『加屋津』という文字を見つけることはできなかった。
座りっぱなしの頭脳労働だったはずなのに、夕方十八時に荒屋敷さんと合流した時には猛烈にお腹が空いていた。ぐぅ、と小さく音を立てた俺のお腹の音を聞いて、荒屋敷さんは「まずは夕食にしましょうか」と微笑んでくれた。
夕食もコンビニ飯ではさすがに味気ないからと、どこかで食べていくことになった。ファミレスは見当たらなかったが、宿の近くにチェーン店ではない居酒屋を見つけた。昼間は定食屋として営業しているらしく、酒のつまみ以外の食事メニューも豊富そうだった。
店内はそれほど広くなく、何組かのお客さんが入っていたが、混雑しているというほどでもない。奥の小さな座敷席に通され、俺たちは焼き鳥の盛り合わせやだし巻き卵、フライドポテトなどを注文した。飲み物は当然ノンアルコールだ。
「市役所で何か分かりましたか?」
おしぼりで手を拭きながら尋ねると、荒屋敷さんは周囲に不自然に聞こえないよう、声のトーンを落として答えてくれた。
「収穫というほどのものはありませんでしたね。対応してくださった市の職員の方もまだ若い方で、その方自身もあの場所については特に知っていることがなく、『図書館で郷土資料に当たった方が早いですよ』と言われてしまいました」
荒屋敷さんは「なんとなくそんな気はしていたのですが」と苦笑いした。
市役所で判明したのは、あの水源林の土地自体の管理責任は市にあるものの、もう何十年も前から機能は果たしておらず、土砂災害の危険性もないため、現在は専門業者による定期的な点検が行われている程度だということ。また錵字川も市が管理する普通河川――つまり河川法の指定を受けない、小さな川や水路と同等の扱いに過ぎないことが分かった。
そこまで話し終えたところで、店員が飲み物と漬物の盛り合わせを運んできた。冷たいウーロン茶を喉に流し込み、きゅうりの浅漬けに箸を伸ばす。今日は一日中クーラーの効いた室内で過ごしていたけれど、漬物の程よい塩気が身体にしみ渡って美味しかった。
「私のほうも時間をかけた割には、大した収穫が得られませんでしたね」
立派な眉毛を困ったように八の字にした荒屋敷さんは、自分のスマホを取り出した。
「そういえば梨奈さんも今日は立て込んでいたらしく、こちらの調査に割く時間が十分に取れなかったようです。ただ、先ほどメッセージを送ってきてくれましたよ」
受け取ったスマホ画面を見ると、『裁判記録なしです!』という短いメッセージが綴られていた。
「裁判記録……ですか?」
「ええ。もし市の管理している河川で事故が起きた場合、遺族側が自治体の管理不備を訴えて裁判になるケースがあります。管理瑕疵というものですね」
だし巻き卵とフライドポテトが運ばれてきて、俺は話を聞きながら前のめりで箸を伸ばした。
「あの川には、安全のための柵や注意喚起の看板が設置されていませんでした。もし加屋津さんのご両親が自治体の管理責任を訴えていたら……裁判記録があれば、事故当時の詳細な状況が読み取れたかもしれないと思ったのですが」
裁判、という発想は俺には全くなかった。そうか、確かに実際に人が亡くなっている以上、注意喚起の看板くらい立っていてもおかしくない。
「ただ、過去に他には死亡事故の記録もないようですし、非常に言いにくいことですが……行政側も『浩一さんご本人の過失』として処理したのかもしれません」
「なるほど……」
仮に本当の死因が幽霊や妖怪の仕業だったとしても、公的な記録は病気や事故という理由がつけられて処理されてしまう。現段階では、本当にただの不運な事故だったのか、それともあの川に潜む『何か』のせいだったのかは、まだ断定できないのか……。
そうして話しているうちに、頼んでいた焼き鳥やチャーハンが運ばれてきて、俺と荒屋敷さんは美味しく舌鼓を打った。
途中、今回の事件について話を交わしている最中、俺の声がうっかり大きくなってしまい、荒屋敷さんから優しく注意されてしまった。腹が膨れてきたせいでつい気が緩み、注意が散漫になってしまったことを申し訳なく思う。けれど、店内を見渡しても俺たちの会話に反応しているような客はおらず、「まあ大丈夫だろう」と安易に高を括っていた。
美味しい食事をすべて平らげ、荒屋敷さんがお会計を済ませてくれて、外へ出た。
夜風を浴びながら、駐車場に停めてある荒屋敷さんの車に乗り込もうとした――まさにその直前のことだった。
俺たちの後に居酒屋から出てきた人物に、不意に、背後から声をかけられた。




