6-2. 浮かぶ梅の実
最初の出会いをきっかけに、シラカバさんはたまに藤見家へやってくるようになった。
家に上がるとき、彼は必ず手土産にお菓子を持ってきてくれた。ただ、梅のゼリーは最初の一回きりで、二度と持ってこなかった。東京駅の売店の名前が印刷されていたり、また違う場所で購入したことが分かるような和菓子や洋菓子だった。
シラカバさんの話によると、石森市に拠点を置くとは言っても、もともと東京で始めた仕事の事務所も向こうに残してあるのだという。まだこちらでは仕事が少ないため、時々は東京へ戻ったり、県外での相談事に対応したりと、市内にいることの方が少ないと言っていた。
それでも、月に一回くらいの頻度で、ふらりと我が家へ顔を出していた。
小学生の俺が学校から帰ってくる時間、家には必ず母か祖母のどちらかが在宅していた。だからシラカバさんが来ているときは、いつも居間でどちらかと楽しげに談笑していた。シラカバさんは生前の祖父や父と特に懇意にしていたらしく、昔はよくこの家に遊びに来ていたそうで、当然のように祖母とも旧知の仲だった。
当時の俺にとって、大人の分類なんて『若者』『大人』、もしくは『老人』という大雑把な種類しかなかった。だから、シラカバさんも母も同じ『大人』という枠組みで、両親の友達であり先輩なのだと聞かされても、シラカバさんの方が母よりちょっとだけ若く見えることなんて、これっぽっちも気にならなかった。
「シロさん、毎回毎回、お土産なんて持ってこなくていいんですよ。気にしないでください」
母がそんな風に遠慮しても、シラカバさんはいつも「気にするな、俺が好きでやっているんだから」と飄々と言っていた。
あの最初の梅ゼリーも、その後に持ってきてくれたお菓子も、必ず二つは、父と祖父の仏壇の前に供えられていた。
ある日、シラカバさんが帰ったあとの台所で、祖母と母がこんな話をしているのを小耳に挟んだことがあった。
「シロさん、お義父さんたちのお葬式に来られなかったこと、やっぱり今でも気にされてるのかな。ほら、いつも律儀に手土産を持ってきてくれるから」
母の言葉に、祖母は小さく溜息をついて頷いた。
「長く外国に行っていたそうだからね、それなら仕方がないのに。まぁ、確かにおじいさんの時もあの子の時も、どっちの時も全く連絡が取れなかったから、正直なところもう縁が切れてしまったのかと思ったけれど……」
「震災の時もずっと連絡が取れなくて心配したけど……。あの人は『シロさんなら、どこにいたってきっと大丈夫だよ』って笑ってたから、どこかで元気にしてるのかなとはなんとなく思っていたんだけどね。まさか、またこんな風にひょっこり現れるとは思わなかったわ」
祖父が亡くなったとき、俺はまだ二歳だった。生きている祖父に関する記憶は、ほんの少ししか残っていない。ひどく朧げな影のような記憶だ。
父が亡くなった五歳のときのことは、少しだけ覚えている。『お葬式』という儀式のことも。
黒い服を着た大勢の人たちが、入れ替わり立ち代わりで我が家にやってきては、幼い俺の顔を見て「かわいそうに、まだこんなに小さいのに」と口々に憐れんだ。そうして、目を赤くした母や祖母を励ますように、静かに声をかけて帰っていった。
あの多くの参列者の中に、シラカバさんはいなかったのか。幼かった俺が全員の顔を覚えているわけではないけれど、母たちの会話から察するに、やっぱり彼は来なかったのだろう。
友達だって言っていたのに……。
子供心に、ほんの少しだけ寂しいような、不可解な気持ちが胸に沈んだ。
祖父と父がこの世を去ってから、俺にとって一番つらかったのは、身近に「幽霊や妖怪が見える人間」が一人もいなくなってしまったことだった。
と言っても、当時は俺自身も自分の体質をはっきりと自覚していたわけではない。ただ、正体のわからないものを怖がって泣く俺を抱き上げて、「怖いなら、見えないふりをしなさい」「怖がると、面白がって寄ってくるんだよ」と、優しく諭してくれたのは、きっと祖父や父だったのだと思う。記憶は鮮明ではないけれど、俺を大きな腕で抱き上げてくれた温かい感触だけは残っていた。
父たちと違って、祖母と母にはそれらが一切視えない。二人はのほほんと、お化けなんてこの世にいるわけないと、純粋に信じて生きている。
祖父や父がそういう奇妙なものを見ている体質だったことは、きっと大人同士、知ってはいたのだと思う。
けれど、「見えないのであれば、いないも同じだ」という、ある意味で非常に健全で逞しい感性を持った人たちだった。
小学校という場所は、俺にとってあまり好きな空間ではなかった。
授業中、自分の席に座っていると後ろからトントンと肩を叩かれる。何度も執拗に叩かれて、振り返ってもそこには誰もいない。自分がその教室の一番後ろの席だったということに気づくのは、振り返ってからだった。
校庭の大きな木の下に変な異形が佇んでいるのを見つければ、俺一人だけが遠回りして教室に戻る。
そんな奇妙な行動ばかりを繰り返していれば、子供たちの輪から自然と外れていくのは、至極当たり前の流れだった。
変わり者の俺を標的にして、ちょっかいをかけてくるような同級生も中にはいた。けれど、俺がひたすら相手にしないように無視を決め込んでいると(実際は、周囲の怖いものをやり過ごすのに必死で、構っている余裕がなかっただけなのだが)、そいつらはいつの間にか勝手に自滅していった。
俺をからかおうと追いかけてきたせいで、いつの間にか怖いものがそいつにつきまとい、急に体調不良を訴えたりすることもあった。――この世ならざるものが見えなくても、人間はその影響を受けるのだということ。それは、俺が子供ながらに経験から学んだ事実だった。
いつしか周囲からは「霊感がある」「妄想癖がある」と好き勝手に噂されるようになり、友達は一人もできないまま、時間だけが過ぎていった。
そんな学校生活を送り、俺が小学六年生になった年の休日だった。
シラカバさんと初めて出会ったあの時と同じ、梅雨の季節。その合間に訪れた、過ごしやすい気温のよく晴れた日だったが、空気にはやはりジメジメとした湿気が漂っているような、そんな午後だった。
前日の雨の恵みをたっぷりと吸い込んだ庭の木々や草木は、どこか気持ちよさそうに緑の葉を伸ばしていた。
昼下がり、祖母から「庭の草むしりを手伝って」と頼まれ、俺は花壇の外側に生い茂る雑草をちまちまと引き抜いていた。
すると、不意に小気味よい足音が近づいてきて、シラカバさんがひょっこりと姿を現した。
「えらいな惟、おばあちゃんの手伝いか?」
「……うん」
ずっと下を向いて作業をしていたから、彼が敷地に入ってくるまで気づかなかった。辺りを見回すと、さっきまで隣にいたはずの祖母の姿がない。家の裏手のほうにでも行ったのだろうか。
「今月はちょっと遠方での仕事が忙しくてな。ほら、これ土産だ。良かったらみんなで食べてくれ」
「あ……ありがとうございます」
土のついた軍手をはめたまま受け取った紙袋を覗き込むと、中には黒い化粧箱が入っていた。英語でロゴが書かれたパッケージは、チョコレートかキャラメルを使った洋菓子のようだった。
……梅のゼリーじゃなくて良かった。ホッとしたのは、彼と初めて出会った時と全く同じ、ジメジメとした季節だったからかもしれない。
「今、『梅のゼリーじゃなくて良かった』って思っただろ?」
「!」
心臓が跳ね、びっくりしてシラカバさんの顔を見上げる。
彼はいつもの飄々とした、けれどどこかひょうきんな表情でニヤニヤと笑っていた。
「じゃあな、また来るよ」
それだけ言うと、彼はひらひらと片手を振って、そのまま風のように我が家から去っていった。
「あれ、惟。今、誰か来ていたの?」
シラカバさんの背中が完全に見えなくなってから、家の中から新しいゴミ袋を抱えた祖母が戻ってきた。
「うん……シラカバさんが、お菓子置いてった」
手元の黒い箱を見つめながら、俺はある奇妙な事実に思い至った。
初めてあの薄緑色のゼリーを貰った日から、約五年もの歳月が流れている。小学一年生だった俺は、もう六年生になった。
――どうしてシラカバさんは、あの出会った日から変わっていないんだろう。
記憶の中のシラカバさんは老けることがない。母だって祖母だって、少しずつ白髪が増え、皺も刻まれていく。ふとした瞬間に月日の流れを感じることがある。
なのに。
まるで、彼の時間が止まっているかのようなその異常さに、俺はそのとき初めて気がついたのだった。




